『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

祝・卒業

今日は勤務校の卒業式でした。

私にとっては、7回目の卒業担任ですが、子供たちにとっては、最初で最後の小学校卒業。「慣れ」や「惰性」で卒業の準備をしてしまわないように注意を払って過ごした1年間でした。

 

今年のクラスも、日々、素敵なドラマが起きたので、今年の卒業式は泣くぞ!と思っていたのですが、やっぱり今年も泣けませんでした。

泣けない理由は分かっています。

一つは、子供たちの姿を見ていると、誇らしい気持ちが湧いてくるからです。寂しさや感動よりも「どうだ!ウチのクラスはこんなに立派に成長したんだぜ!」という気持ちが先に立って、涙が出てきません。

もう一つは、申し訳ないからです。今年のクラスも素敵はクラスに育ちました。でも、それは私の力よりも、子供たちの頑張りが大きい。私がもっと良い先生だったら、この子たちがはもっと伸びたんじゃないか。私が担任じゃなかったら、もっと成長できたかもしれない。そういう気持ちが、どうしてもぬぐいきれません。だから、感動よりも、申し訳無さがムクムクと湧いてきます。

 

誇らしい気持ちと、申し訳無さを抱えて、今年も卒業式が終わりました。私の力不足は分かっています。でも、どの子も、中学校や高校、大学、社会人となってからも、幸せとなることを、心の底から祈っています。

 

卒業、おめでとう。

 

何度も

いよいよ今週は卒業式。式を間近に控え、子供たちに「流動的な関係性を意識的に保ちなさい」ということを語ろうと思っています。

 

関係性は本来、流動的なものです。が、学校では、様々なものがそれを阻害します。もちろん、私も「それを阻害するもの」の一つですし、私以外にも、この子たちが今までの受けてきた様々なものが影響しているでしょう。

その「呪縛」を解くのは簡単なことではありません。私一人では絶対に無理だし、この1年間は、その難しさにウンウンと唸りながら過ごしてきました。子供たちは、「様々なもの」に押し止められつつも、ゆっくりと関係性をほぐしてきました。

 

だから、最後の3日間に、今まで何度も語ってきたことをもう一度伝えたいと思います。まあ、最後になって新しいことを言い出しても仕方ありませんしね。

「みんなができる」と「みんな一緒」

特に理由は無いのですが、何となーく気になったので、書いておきます。

『学び合い』の「みんなができる」は「みんな一緒」と同じことだ、そう勘違いする方がいるかもしれません。いたら嫌だな。真逆なんです。

 

「みんなができる」ためには、「みんな一緒」ではいけません。

例えば、算数の「分数の足し算、引き算」の学習を『学び合い』でやったら。足し算が数問で分かる子もいれば、なかなか分からない子もいます。中にはもう既に家や塾で勉強して、分かっている子もいます。そういう子は先に進みます。そうでない子は自分のペースで進めばいいのです。必然的に、足し算をやっている子もいれば、引き算をやっている子もいる状況になります。次の単元、その次の単元とどんどん進む子もでてきます。

このように、『学び合い』で「みんなができる」を追求すると、バラバラになっていくのです。「みんな一緒」なんて無理。「みんなができる」のためには、多様性が不可欠です。

 

ただし、『学び合い』を始めて直ぐには、この状況は成り立ちません。これが可能になるためには、

  1. それぞれが自分のペースで進める安心感と自立心
  2. その勉強が好きで勝手にどんどん学ぶトップランナーグループの頑張り
  3. トップランナーを焦らせる後続グループの台頭
  4. 全ての子が緩やかに繋がる関係性

が必要です。

これらが醸成されるまでには、時間がかかりますから、それまでの間は一見、「みんな一緒」にやっているように見えるかもしれません。けれどそれは、『学び合い』のスタート段階です。多分、今までの経験から、子供たちも「そうするもの」と囚われているんでしょうね。みんな一緒の方が安心。違うことなんてやっていいの!?そう思っている子が多数派。そこから抜け出せるには、どれくらいの時間が掛かるのかは、多分、その子達の今までの経験によるのでしょうね。

私は6年生担任が多いので、過去の経験の積み重ねがもたらすある種の呪縛を感じたことは何度もあります。同時に、中学校、高校で『学び合い』をやる難しさも想像してしまいます。

 

私は「一人も見捨てない」を実現するためにも、“「みんな一緒」じゃなくていい”という考え方がもっと広がって欲しいと願っています。より多くの子が救われるためにも、我が子が救われるためにも。