『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

攻撃的な子供

時々、「他者に対して攻撃的な子供」に出会うことがあります。友達に対しては、乱暴な言葉を使い、時には暴力もふるうけれど、教員の前では「可愛い顔」を見せる。そういう子です。

 

そういう子を見ると、

「こうやって人を攻撃することで、居場所を作るしかないんだな」

と悲しくなります。同時に、そうさせているのは私にも大きな要因があるのだと苦しくなります。そして、早く集団の枠組みを変えなくてはならないと焦ります。そういう子は、保護者さんも苦しんでいるものです。切なくなります。

 

子供がわざわざ人を攻撃するのは、そうすることで「立ち位置」が上がるからです。一目おかれたり、意見が通るようになるからです。だから私は、そのルールを作りかえようと努力します。「強い者が上」になるルールから、「他者のために働ける者が上」になるルールへと。

 

けれど、これがなかなか難しいのです。きっと、私の中にある「攻撃的な子」へのシンパシーが邪魔をするのでしょう。私が「良い先生」になるために乗り越えるべき課題の一つです。

情に流されないために

時々「学びから逃げているように感じられる子」に出会います。なかなかノートに文字が書けない子、問われても答えられない子、教科書やノートを出さない子、そんな子たちです。

もちろん、その子たちが「学びから逃げている」というのは、私の勝手な受け取り方。その子たちは逃げているつもりなどないのかもしれません。むしろ、そういう行動で何かを表明したり、表現したりといった積極的な行動なのかもしれないと感じる時さえもあります。

そんな時、私の中で葛藤が生まれます。その思いを受け取ってあげたいという「情」と、その労力を学級全員に対して費やしてやれないという「現実」の狭間で悩むのです。もし、「学びから逃げている風を装い、教員に何かを伝えようとする子」にばかり私が目を向けたら、そうする子がどんどん増えるでしょう。一人なら何とか目を向けられるかもしれませんが、それが複数になったら捨て置く子が出てしまいます。また、苦しさを分かりやすく表現できず、ひたすらに隠す子もいるはず。そういう子の存在が頭から抜けてしまうでしょう。

だから、情に流されてはいけないのだと、自分に強く言い聞かせます。私は、自分が単細胞なことも、短気なことも分かっています。情で動いたら、止まらなくなるのです。だから、努めて冷静に、時には仲間から「冷酷だな」と笑われるくらい(こういうことを、真面目かつ、笑って話せる間柄なのです)に、自分を律します。

 

時々、自分の「情」を前面に出して子供たちと接している方を見ると、羨ましくなります。情のままに流されたら、どれだけの快楽を得られるだろうか、と考えます。でも、それはあまりに刹那的です。先のことを想像すると、情を抑え込むしかないのです。

昨日は教室で涙がでました。でも、その数十分後には

「私はみんなの親ではないんだよ。『やってあげますよ』なんて言わないよ」

と突き放した話をしました。また、最初に書いたような子供たちには、

「学校は勉強するところです。勉強しなさい」

と冷たく命じます。

子供たちが可愛くて、大好きだからこそ、情に流されてはいけないのだと、自分に言い聞かせています。

 

祈る

私は卒業式では泣かないのですが、授業では泣いてしまいます。今年のクラスも、私を泣かせます。今日は今年度の初泣き。

授業初日に、私がどんなに声を掛けてもノートに何も書かなかった子が、友だちと笑顔で問題を解いている姿。つい数日前には課題が終わったらじっと座っているだけだった子が「教えるよ!」と教室を回っている姿。そんな姿を見ていると、涙が出てきます。

毎年見ているはずなのに、飽きません。

 

どうか今年のクラスも、素敵な集団へと育ちますように。そう心から願い、そして、祈ります。神仏ではなく、集団の持つエネルギーを信じ、託すような気持ち。もちろん、私ができる努力は一切惜しみません。でも、自分の力量不足は自覚していますから。それでも子供たちが幸せになって欲しい。心からそう、願って。