『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

捉われ

分かったようなことをグダグダと述べ、偉そうにしている(と思われがちな)私ですが、実際は当然ながら迷ったり悩んだりして日々を送っています。今日も
「ああ、分かっていないよな、俺」
と感じて落ち込むことがありました。

4月はどうしても、周囲の目が気になりました。ですから、目立たないようにしてきました。また、他の方から見て「いい先生」「いい学級経営」と言ってもらえるように、『学び合い』のセオリーに反することもしてしまいがちでした。これが、転勤して2年目・3年目となっていけば、そんなことしないんですけれど。

今日、自分で気づいたのは「子供たちをビシッとさせるのがいい先生だと他の人は皆んな思っているに違いない、という思い込み」です。その結果、必要以上に「とりあえず、今はビシッとさせなくちゃ!」と勘違い行動。まあ、私の「ビシッと」は他の方から見ればかなりダルンダルンですけれどね。
私は、周囲から浮くことが多いため、他の方々は私とは真逆の価値観を持っているんじゃないか、という勘違いに捉われているのでしょう。そんなわけはありません。価値観なんて十人十色なんですから。

と分かっていてもなかなか抜け出せないもの。そういえば、イマキヨさんがどこかで
「小学校の『学び合い』実践者は、周囲の目を気にしすぎ」
というような趣旨のことを書いていたような気がします。(イマキヨさん、違っていたらすみません。)
イマキヨさんがそう言ったかどうかはおいといて、自分でもそう思います。

任せるために必要なこと

私が『学び合い』で大切にしていることは、「がっちり握り、すっぱり放す」ことです。

 

がっちり握るとは、学級全体に揺るぎない価値観を示すこと。すっぱり放すとは、任せたからには余計な口出しはしないことです。

ただ、必要であれば口出しをします。必要かどうかは、学級に示した価値で判断します。

 

じゃあ、私が示す「価値観」とは何かというと、それは「学校は勉強するところ。勉強しようぜ!楽しいぜ!」。

みゆき会の3人は基本的に考え方も方法もバラバラなのですが、ここが最も共通しているのだと思っています。古田さんは「かしこくなる」という言い方をします。坂内さんは「授業そのものが学校」というようなことを言っています。表現の仕方は個性が滲みますが、まあ、バラバラみゆき会あって、この価値観は近いんじゃないかな。

ということで、今日も学級で「勉強せい!」という話をしました。私が心からそう言えるのは、実は、勉強ができなかったり、間違ったりしても別に構わないと思っているからです。少なくない教員が、「できないこと」を恐れ過ぎ、その結果、勉強せい!と言えなくなっているように感じます。

勉強ができないことは、悪ではありません。でも、学校では勉強した方がいい。というか、勉強しないと損ですよ。勉強した方が絶対に得。この感覚が分かってもらえるかなあ。

自覚

大切だと思っていることなので、時々、思い出したように書いておきます。

 

学校は、その仕事の大きな割合を「家庭教育力」に頼っています。例えば、平仮名だって、掛け算九九だって「お家で練習」が基本です。学力と家庭の経済状況に相関関係があるのも、学校が家庭教育力に頼っていることの表れの一つではないでしょうか。

 

私は、このことに学校がもっと自覚的であるべきだと考えています。その上で「それじゃイカンよね」という話をしたいです。