関われるようになるまで
6月です。
この時期は、学級の中で「関われるようになった子」と「まだなかなか関われない子」の違いがよく見えます。4月は関われる子が少数派。5月になって「関われるって得だな」と気づく子が増えてきて、そういう子が6月には「関わって当たり前」になってきたように見えます。そういう子は、「なかなか関われない子」に一応は声をかけます。が、関われないタイプは無反応だったり、露骨に嫌な顔をしたり。だから、ちょっと距離ができてしまうのかもしれません。
が、そこでちょっと立ち止まって見てみます。距離ができているように見えるのは、私の勘違いかもしれません。「早く関われるようになれよ〜!」という私のイライラが見せる幻かも。そこで、イライラを抑え、冷静に見てみます。また、子供たちの声に耳を傾けてみます。
すると、分かってきます。「まだ、なかなか関われない子」も、ちゃんと作戦を練って、自分なりの一歩を踏み出している場合も少なくはありません。
「今日は、一人に話しかけてみた。」
「一言も話していないけれど、それでも近くに座ってみた」
そんなチャレンジをしているのです。というか、私のクラスで、今日、実際にやっていたことです。
関わることが苦手な子は、そういう小さなことからスタートしているのです。毎日毎日学び合って、もう2か月が経ちます。それで、こういった進捗状況。苦手な子にとっては、それくらい時間がかかることなのですよね。
『学び合い』を年単位で実践していない方にはピンとこないかもしれません。もしかしたら、「何か月も学び合って、その程度かよ」と馬鹿にする方もいるかもしれません。そういう方にはよく考えて欲しいのです。それくらい関わることが苦手な子がほぼ全てのクラスにもいるんです。そういう子は、今後、どうやって生きていくのでしょう。中学校や高校に進学して、ちゃんと人と関われるでしょうか。就職後はどうでしょうか。AIが発達したら、代わりに文章を書いたり、計算したりしてくれるかもしれません。でも、AIが代わりに友達を作ってくれるでしょうか。もし作ってくれたとして、その友達と関われるでしょうか。それとも、AIだけが友達になる?いや、AIとも関われないかもしれません。それで構わないとお思いですか?
『学び合い』を長く実践している方は、分かってくださるでしょう。関われるようになるまで、ものすごい時間がかかる子がいますよね。本当に苦労する子がいます。
この時期は、焦る時期かもしれません。私も焦ります。けれど、この焦りは子供たちを傷つけます。私の不安を子供たちにぶつけてしまわないように。明日も笑顔を忘れずに、明るく夢を語りましょう!
ちょっとずるい書き方
こういうことを書くと、混乱する方もいるかもしれませんが、まあ、それが私ということで。
昨日、「課題は何でも学び合える」なんてことを書いておきながら、実は私、出来る限りの「授業準備」をしています。世の小学校教員の平均を遥かに超える労力を、授業の準備に費やしているはずです。日々、教材研究や教材分析をし、授業のシステムを考えています。
でも、教材研究をしているから、子供たちが学び合えるわけではないのです。教員が教科に対する高い専門性を持っているにも関わらず、子供たちが学べない。そんな学級は山ほどあるでしょうから。
じゃあ、何で授業準備をするのか。
それは、「学びがいのある授業」にするためです。
私が子供たちに「一人も見捨てないこと」を求めると、子供たちはそれに応えようとしてくれます。その時にトップランナーとして頑張る子は、比較的勉強が好きな子達です。その子達は、私の
「人間は、他者に教えると、賢くなる」
「日本一のクラスになろう!」
という言葉を信じて教えるんです。もっと賢くなりたくて、日本一賢くなりたくて学び合ってくれるんです。トップランナーは、学びがいのある授業を求めているんです。
子供たちのその想いに応えたい。
授業準備も「愛」なのです。愛なき教材研究は、子供たちに響きません。
ただ、トップランナーにとって学びがいのある授業は、一部の子にとってはツラい面もあります。でも、「一人も見捨てない」んです。
愛があってこその教材研究、教材分析、授業システムです。
酔ってないよ。
『学び合い』を始めたばかりのころは、課題にこだわりました。どんな課題なら子供たちが学び合えるか、さんざん悩みました。
けれど、続けていく中で、課題はそれほど重要じゃないことが分かってきました。極端な言い方ですが、どんな課題でも学び合えるのです。そんなに素晴らしい課題でなくて良いのです。学習内容を数人が理解してくれれば、何とかなりますから。
けれど、「何でも学び合える」からといって「何でも学び合う」とは限りません。学級は担任の鏡です。私が手を抜けば、子供たちも手を抜きます。
そこで「まずい」と気付けるかどうはかは、「愛」だよなと思います。
課題のレベルは、教員の専門性や知識量も重要かもしれませんが、でも、それだけではないと確信しています。最終的には「愛」だとしか思えません。
というと、以前から何度も、「じゃあ、『学び合い』がうまくいかない人は、愛が無いというのか!」とか「知識や技術は努力で身につけられるけれど、愛と言われたらどうしようもない」とお叱りを受けてきたのですけれど、それでも声を大にして言いたいのです。
愛ですよ。
そして、若い先生方は、これこそを伝えたいのです。児童への愛は、努力で育めると思うんです。私も最初から、子供たちをこんなに愛せはしなかったのですから。教員として悔しい思いをし、自分の無力さや情けなさに打ちのめされながら、ちょっとずつ子供たちを愛せる教員を目指してきました。もちろん今も、その途中です。
『学び合い』は心で行う教育だと言う人がいます。私もそう思います。もし、自分が上手くいかないと感じているなら、愛を育んで欲しいのです。
なんてことを、酔ってもいないのに書きたくなったのは、なぜでしょう。
今日は何となくそんな日だったのです。