『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

嘘がばれる

昨日のエントリーでは「大人の理屈が分かる子」と「大人の理屈が全く分からない子」について書きました。そして、後者を「指導が通じず手を焼く」と書きました。

けれど、学級経営上、より手強いのは、実は前者だと思っています。大人の理屈が分かる子が手強い。

 

大人の理屈が分かるということは、言い換えれば、大人の嘘も分かるのです。

分かった上で、従っているふりをしてくれているのです。

場合によっては、学級崩壊を裏で主導したり、学級内の「階層」を生み出したりするのも、そういうタイプの子です。もちろん、そういうことになるのは、その子が悪いわけではないでしょう。学級の管理者である担任が、その子に適切な立ち位置を与えられないからそういうことが起きるのですから。

もちろん私も、以前はどうすれば良いか分かっていませんでした。初任の頃なんて酷かったなあ。今思うと、変に恐れて持ち上げ過ぎていましたね。

 

今の私は、「大人の理屈が分かる子」には「大人の理屈」で動いてもらいます。

「一人も見捨てないのは、自分にとって得」という理屈です。

これって、非常に難しい理屈です。心のどこかで「駄目な奴は放っておいて良いだろう」と思っている人が多数派かもしれません。でも、繰り返し語れば小学生でも理解できる子がいます。少なくとも、私が『学び合い』に出会ってからの8年間で、この理屈が誰も理解できなかった学級はありません。必ず数人は理解して、「じゃあ、自分が得をするために、積極的に助けよう。性格的・生理的に無理な人も、自分が損をしない程度に助けよう」と動いてくれました。もちろん、今の学級でも。

こういう理屈が分かる子が「子供の立ち位置」から私を見ているならば、これは厳しい!ありとあらゆる場で「私だけが大人なのだ」と完璧な振る舞いをしなければいけません。もたないよ、そんなの!

でも、そういう子が「大人の立ち位置」から学級を見てくれるならば、非常に頼もしい存在となります。そして、そういう子は、自分と同じ立ち位置に立ってくれる仲間を増やそうとするでしょう。その方が楽ができるからです。私はそれを「児童の同僚化」と呼んでいます。

 

「一人も見捨てたくない」というのは、教員の「情」でしょう。情のない言葉を発すれば、その嘘がばれます。でも、情を情のまま語っても、集団は動きません。その情を本当に実現しようとすれば、それ相応の策略を練るのがトップの責任です。担任は、学級のトップとしての責任を果たさなければならないのです。子供はちゃんと見ています。

子供の世界には入れない

残念なことに、教員が児童に「暴言」を発した、という報道が時々あります。「体罰」の報道も度々目にします。傷ついた児童の心のケアが適切になされることを祈ります。そして、同時に、なぜそういうことが繰り返されるのかを、もっと真剣に考えなくてはならないと感じます。と言うのは、そういった問題行動は、多くの教員が起こしかねないと思うからです。もちろん、私だって。

 

では、なぜ教員が児童に「暴言」「体罰」という、教育的効果も見込めなければ、法的にも明確に禁じられていて、その上、児童や保護者からの信頼を失うような行動をしてしまうのでしょうか。

私は、「教員が子供の世界に入ろうとしてしまうからだ」と考えています。

 

私が子供の頃にも、教員になったばかりの頃も、そして今も、子供の中には「大人の理屈が通じる子」と「大人の理屈が全く通じない子」がいます。指導が通じず手を焼くのは、言わずもがな後者です。大人の理屈が通じない子は、子供の世界の申し子と言ってもいいでしょう。ある種の真面目な母親はもしかしたら「あの子とは一緒に遊ばないように」なんて言うかもしれません。それなのに、周囲の子は何故かその子に寄っていく。そういうタイプの子です。

そういう子に「指導」をしようとすると、実に大変です。だって、理屈が通じないのです。

「人を叩いてはいけないよ。」

そんなことを言っても、「何で?」と言われます。

「相手は嫌だって言ってるよ」

「大丈夫。笑ってたから」

「でも、嫌だって先生に言ってたよ。人を叩いていたら、嫌われるよ」

「俺、友達いっぱいいるもん!」

こんなやり取りをしたこともあります。こうやって話をしてくれるのですから、私のことがことさら嫌いな訳ではないでしょう。でも、通じません。この子にはこの子なりの「子供世界の理屈」があるのでしょう。こういう子に、大人の理屈で攻め続けると、そのうちまともに話すらできなくなるでしょう。

 

それでも更に「指導」を続けていくと、教員の中には「だったら、大人の理屈ではなくて、子供世界のやり方で指導してやろうか」という考えが浮かぶ場合も少なくないでしょう。

 

だったら、その子にも通じるような言葉で驚かせてやろう。

だったら、俺がお前を叩いてやる!そうすれば、叩かれた痛みが分かるだろう!

 

こんな「指導者が子供と同じレベルに落ちてしまう」ような考えです。こうして「暴言」や「体罰」に至るのではないか。そんな予想をしています。というか、もしも私が過ちを犯すとしたら、こういう流れだろうな。

子供世界の申し子のような子は、大人になってから苦労しそうです。ですから、大人の理屈も理解させてあげたいという願いは、理解できます。ある種の「熱さ」を持っているが故に犯す過ちだとも言えるかもしれません。でも、だからと言って「暴言」や「体罰」が許されることはないでしょう。もちろん私は暴言も体罰も否定します。

 

じゃあ、大人の理屈が通じない子には、どんな指導をすれば良いのでしょうか。

それは、「大人の理屈が通じる子」を動かし、「大人の理屈も子供の理屈もどちらも分かる子」が「大人の理屈では動かない子」を動かしてくれるようにするのです。簡単に言えば、個人を動かすのではなく、集団を動かす、ということ。

これが非常に難しい。そして、時間がかかります。筋道を立てて戦略を練る必要もあります。ここを詳しく説明しようとしたら、何日もかかります。

だから、結果を急ぐと、「だったら・・・・・・」という考えが浮かんでしまうのでしょうね。けれど、無理です。大人になってしまったら、子供の世界には入れないのですから、子供世界の理屈で指導してはいけません。あくまで大人として指導しなくては、子供たちを大人にすることはできないでしょう。


そして何より、その子はもしかしたら大人の理屈を理解することは一生ないのかもしないし、逆に、数年後には自然と理解しているかもしれないのだ、ということも頭に入れておく必要があるのではないでしょうか。その子がどんな人生を歩むかは予想不可能。そういう前提に立つと、やっぱり「暴言」や「体罰」がどれほど無意味かが分かります。