『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

自己嫌悪

授業に対する「手立て」と言う時、「子供達を育てるための手立て」と「授業をうまく取り繕うための手立て」があるように思います。授業とは本来、45分をキレイに見せることが目的ではないはずなのにね。

今年の私はぶれていて、子供達を育てようという意識は忘れてはいないつもりですが、一方で「見られてもよい状態」を作ろうと急いで、授業を取り繕う意識がチラチラしている。というのが本音の自己評価。それが、一部の子供を苦しめてしまっているのも分かっています。

そう言えば、前任校に転勤した年も同じような失敗をしていました。今年もその時と同じように、いや、それ以上に「転勤直後」のプレッシャーを勝手に自分に課しているのも自覚しています。

 

最近は自己嫌悪が止まりません。

土曜日の仙南の会で、リセットできるといいのですが。

 

『学び合い』がいい。そう言って彼は涙を流した

昨日と今日は、本当に学級の調子がイマイチ。木曜日と金曜日は私が出張で、しかも特別日程の4校時。その後に3連休。来週は学習発表会。学年での練習は、教員の連携不足でイマイチ。こういった悪い条件が重なって、子供達の動きは「目も当てられない状況」でした。

私は色々と悩んだ結果、一度、『学び合い』を休もうと考えました。しばらく一斉指導をすることにしました。『学び合い』は学級の問題点がはっきりと見えます。それで私がイライラして学級の雰囲気をさらに悪くしてしまうことも避けたいと思いました。

 

ということで、「明日は『学び合い』じゃなくて、普通の授業をするよ」と告げました。「え!?」という反応の子供達。

すると、何人かの子が、「いやだ」と言い出しました。そして、ある一人が「『学び合い』がいい」言ってポロポロと涙を流しました。しばらくの間、涙を拭くこともなく「『学び合い』がいい」と言い続けています。

私は、その子の溢れる涙を拭きながら、自分の愚かさを恥じました。私は、その子の気持ちに気づいていませんでした。そんなにまで『学び合い』を求めていたなんて。でも、考えてみたら当たり前なのです。その子は、絶対に『学び合い』を必要としている子なんですから。

学級の調子がイマイチだったのは、そういう子供達の思いを汲み取れずにいた私こそが原因だったのです。「イマイチだから、『学び合い』をやめる」のではなく、「イマイチだからこそ、『学び合い』が必要」なのであり、その原因が自分の外にあると考えたこと、即ち、責任逃れをしたことが大きな過ちでした。

 

自分の未熟さと愚かさに恥じ入るばかりです。

 

 

 

 

 

何年も残るように

西川純先生のブログに、このようなことが書かれていました。

妄想 - 西川純のメモ - 『学び合い』

私としては

「一人も見捨てない」という願いを持たないままに『学び合い』っぽい授業スタイルを実施する先生

がどんどん出てきて欲しいと思っています。近くにいて欲しいです。「一人も見捨てない」という願いを持っていない人は『学び合い』をやるべきではない、なんて思いません。もちろん、そういう方はなかなかうまくいかないでしょうけれど。でも、そういう人でも『学び合い』をやって欲しいです。考え方レベルじゃなくて、方法レベルで構いません。

 

もし、そういう方が同じ学校にいたら、私が勝手に教室に入って、状況を見取って、勝手に語ればいいのです。私が同僚に『学び合い』を勧めた当初は、似たようなことは度々やってきました。失敗なく『学び合い』をスタートしてもらうためです。そして、「自分でも語るんだよ」と任せていきました。が、もし、最後まで任せられない場合は、私が語り続ければいいのです。

 

もし、そういう方が私の教え子が進学する先にいたら、それはめちゃくちゃラッキーなこと。もちろん、願いを持って『学び合い』に取り組んでくれる方がいれば、その方が良いに決まっています。けれど、そういう方が少ないのは分かりきっていることです。ですから、私が担任しているうちに「一人も見捨てないことは得なのだ」という実感を得て、何年先も残るようにしていればよいのです。その願いを子供達が持っていればいいのです。それができなかったら、それは私の責任です。

 

ただし、私が何らかの形で関与できるのは「近い場合」だけです。ちょっとでも遠いとそうはいきません。ですから、同時に「一人も見捨てない、という願いを共有してくれる仲間」も増やさなければいけません。そういう濃い人も、もちろん必要です。が、多くはないでしょう。

ですから、繰り返しになりますが、「一人も見捨てない」という願いが薄い人が増えてもいいのです。問題は、そこまで影響を及ぼすだけの濃さを、私が持てるかどうかなのです。