『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

やってしまった(笑)

今日は、とある研修会で授業提供。求められる役割をこなし、余所行きの『学び合い』にしたつもりですが、加減を間違えました。というか、子どもたちがフルスロットルでした。

「ごめんなさい、まだもりもりやっているところ悪いんだけど、そろそろ終わりね」

と言ってもやっている子どもたち。

「えーと、大人の事情で、終わらせてもらいます!」

で終わり(笑)

 

最初は

「どれ、高橋って奴がどんな授業するのか、一丁見てやるか」

というスタンスだった参観者の皆様が、授業中に顔色が変わっていく様子がよく分かりました。いやー、すみません。

 

でもね、参観者には長く『学び合い』を実践している方もいらっしゃいましたし、授業後には

「高橋さんの授業を見たかったんです。私も今度、『学び合い』で研究授業します」

という方もいらっしゃいました。やっぱり、じわじわと広まっていますね。

 

久しぶりに、こういうエントリーを書いた気がします。

私は「見捨てている」のです。

『学び合い』の根幹は、「一人も見捨てたくない」という教員の願いである。
私はこの言葉が好きです。私もそのとおりだと思います。

これに対して、
「でもね、なおたかさん。教員はみんな、一人も見捨てたくないと思っているし、自分が見捨てているなんて思ってもいないんだよ」
と言われたことは、一度や二度ではありません。これもそのとおりだと思います。

ただ、ここが違うのです。「ここ」というのは「自分が見捨てているなんて思ってもいない」というところです。
私は、一人も見捨てたくないと願っていますが、それはつまり、現時点で見捨ててしまっていることを痛いほど分かっているのです。今の私の力では、教え子全員の将来の幸せを保証できません。私は力不足です。無能です。それでも、一人も見捨てたくないのです。何とかしたいのです。いつ実現できるか分からないけれど、でも、いつか「ああ、これで一人も見捨てない教育が本当に実現できたな」と思える日が来ることを信じて、にじるように前へ進んでいるのです。

 

日々、悩み、苦しみながら。そして、それ以上に、楽しみながら。


明日も自分ができることをコツコツとやっていきます。私には、それしか道がありませんから。

結果に結び付く課題

『学び合い』が安定して継続できるかどうかは、簡単に言えば「トップランナーが走り続けてくれるかどうか」です。トップランナーというのは、テストの点数が高い子、という意味ではありません。学ぶことを楽しみ、どんどん学び続けている子のことです。

中には、テストの点数が高いけれど、『学び合い』で「走らない子」もいます。自分ができたらそこでお終い、という子。私はそういう子に

「教えなさい!」

とは言いません。言うとしたら、

「暇なら教えてくれればいいのに」

くらいです。

そういう子を気にするより、トップランナーのことを気にします。『学び合い』で活躍する子のテストの点数がどんどん高くなっていけば、自分で走らない子も、焦って学び合いだすのです。

 

多分、少なくない小学校のクラスでは、評価と授業内容が合っていません。『学び合い』に限らず、ね。もし、テストで評価するなら、『学び合い』の課題とテストが繋がっていなければならないのです。

一方で、ある程度、授業にこだわりのある教員は「テストのための授業」なんてやりたくないでしょう。私もそうです。なんかつまらなくなってくるんですよね。この「つまらない」という感情はどうしようもありません。「梅干しが嫌い」というのと一緒です。好き嫌いは、理屈ではなかなか変わりません。

 

テストと繋がっていて、でも、つまらなくない授業。1学期の後半から2学期にかけての時期は、そんなことを意識して授業を考えています。