『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

実験してみた

一昨日は

「高橋先生、この仕事は任せていいかな?」

「いいっすよ!」

で9時40分まで仕事。

昨日は

「高橋先生、お忙しいところ申し訳ないのですが、○○を作っていただけませんか」

「全然、忙しくないっすよ!」

で9時20分まで仕事。

今日は2日間やれずにいた「自分の仕事」をサッサと終わらせた。19時前には退勤。2日も仕事が滞っていたのだから、少々骨が折れた。若い先生が「手伝います」「代わりにやります」と言ってくれるが、私は断る。

「自分の仕事をやったら、早く帰ってください。私よりクオリティの高い仕事ができるようになったら、お願いします」

なんて嫌なことも言う。

 

私がこんな間違った働き方をするのは、試したいことがあったから。多くの人は「みんな同じ」を好む。私は「人と違うこと」を好む。私ような存在は、不安の素だ。では、どうすれば不安を和らげられるのか。様々なことを試してみた内の一つが「ガンガン仕事を頼まれてみる」ことだった。

この2年、試行錯誤してみた結果は、一応は成功だと言える。でも、疲れる。身を削り過ぎたな(笑)

ただ、私はそこまでしてでも『学び合い』でやりたいのだ。『学び合い』が広まってるきたと言っても、「はい、どうぞ」の『学び合い』は、そう簡単には受け入れてもらえない。

『学び合い』を反対された。

『学び合い』を禁止された。

そういう話もまだまだ聞く。私から言わせれば、そんなの当たり前だ。人と違うことをやりたいなら、目立たないようにうまくやるか、目立っても許されるようにやるか、である。4月から『学び合い』をやろうと思っている方は、週に1回くらいからジワジワとやる・算数だけやるなど、作戦を立てて上手くやって欲しい。派手にやるなら、周囲に有無を言わさないだけの働きと結果を見せるしかない。後者はかなり茨の道だけどね。

8年

8年経った。

あの日、体育館から見えた津波。雪の降る中、高台へ逃げた時の寒さ。そこから見えてしまった惨状。今でもわたしの脳みそにこびりついている。

でも、今の小学生は、震災の記憶はほぼない。小2の息子は、当時は0歳。覚えているわけがない。

それで良いのだと思う。

 

私もそのうち忘れられるかな。

隙間と担任と感謝

勤務校には「タカハシ」姓が3人もいる。そこで、4月に子供たちに

「キャプテンと呼んでください」

と頼んだ。1年経ってかなり定着。授業を受け持っている子供たちはもちろん、他の学年の子供たちも「キャプテン」と呼んでくれる。職員室に来た児童が

「失礼します。キャプテンに用事があってきました」

と言うのも日常になった。同僚も職員室で

「この書類はキャプテンに提出していいの?」なんて感じで普通に呼んでくれる。保護者も授業参観の日に

「すみません。PTAのことはキャプテン先生に聞くように言われたのですが…」

と話しかけてくれた。幼小交流の業務で幼稚園に行っても、保育園に行っても、園児は

「あ、キャプテン!おはようございます」

「キャプテン、久しぶり!」

とあいさつしてくれる。

これ、単純に楽しい。元々、演じることが好きな私は、今年一年「キャプテン」キャラになることで(やりたくなかった教務主任の)仕事を楽しんでやれた。子供たちはもちろん、同僚や保護者や地域までこれに付き合ってくれたのだから、感謝しかない。

もちろん、ただの思い付きではなく、私の中に「この学校には、こういうちょっとした『隙間』が必要なんじゃないの?」という考えがあってやったこと。若い教員も多い学校なので、若手がのびのびとやれる環境にしつつ、ベテランの先生方にも持ち味を発揮して欲しかった。それを強制しても上手くいくわけないので、私が一番先に「ちょっと変なこと」をやってみたのだ。

まあ、結果についての総括は年度末にやるとして、とりあえず私が楽しかったのは確か(笑)

 

一方で、忘れてはならないのが、そんな私の遊びを苦々しく感じている人もいる、ということ。

例えば、昨年度担任していた子供たち。その子達に

「先生って今年は、キャプテンって呼ばれているの?なんで?」

と言われた。そうか、そういう風に思うのか。子供たちは何の疑いもなく担任も持ち上がりだと思っていたのに、4月になったら担任を外れ「キャプテン」になった私に「なんで?」と思っているのかもね。ごめんよ。

そして、同僚の「きちんと」した方も、快くは感じていないだろう。私は隙間が必要だの判断したけれど、必要ないと考えている人もいるし、隙間は必要だろうけれど、それを教員がこういう形で作らなくていいと考えいる人もいるだろう。そりゃそうだ。

若い頃には、異なる意見を持つ人に対して対立的な心情を抱いてしまっていたが、今は変わってきた。そういう「きちんと」した方がいるから、私は安心して遊べるのだ。公教育の場では、遊び過ぎたら、周囲との関係の面でちょっと危険。危険なのにやっちゃう私。そんな私にブレーキをかけてくれるのだから、感謝しなければいけない。

と言いつつ、止まる気はないんだけどね(笑)