『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

超利己主義

10日のエントリーのようなことを書くと、私があたかも聖人君子のようなキャラだと勘違いされるようだ。だが、そんなことを言ったら、私のことをよく知っている友人は大笑いするだろう。私は全くもってそんなキャラクターではない。

私は「私自身の幸せなど、どうでも良いのです。人々の幸せが、私の幸せなのです」なんて言いたいわけではない。私は、私の幸せが一番だ。私自身の幸せのために、とことん追求してみたら、「周囲の幸せが、私にも波及する」と分かったのだ。もちろん、100%じゃないけどね。

逆に言うと、周囲の不幸が私にも波及するのである。不幸な人を見捨てていると、自分にも悪影響を及ぼしかねない。だから、「一人も見捨てないことが得」なのだ。ただし、一人を助けるために他の人を不幸にしてはならない。不幸が波及する。例えば、「教え子のために家族を犠牲にする教員」は、一時的に自分は幸せかもしれないが、家族は幸せになれないし、それ故に、いつか教え子も不幸にするかもしれない。もちろんこれも、100%ではないけれど。

だから、私は可能な範囲内で、自分のつながりのある人々の幸せのために、やれることはやるのである。やれること、はね。

 

私が人の幸せを喜ぶのは、利己主義だからだ。しかも、超の付く利己主義。超利己主義は、計算高い利他主義になるのだろう。

大丈夫だよ、と伝えてあげたい

『学び合い』に出会って心から良かったと感じるのが、他者の喜びを心から喜べるようになったことだ。自分が所属している集団の誰かの喜びは自分にとってプラスになるのだ。また、自分がつながっている人とつながっている人(つまり、知り合いの知り合い程度のつながりがある人)の幸せも、自分の幸せにつながっている。世の中はけっこう狭い。誰かの喜びや幸せが、自分のプラスになる可能性は高いのだ。

だから、人の幸せや幸運をやっかんだり、人と比べて自分はダメだと落ち込んだりしている人を見ると

「心配ないよ。大丈夫だよ。貴方にも幸運が訪れるよ」

と伝えてあげたくなる。そこで悲観的になって、他者とのつながりを断ち切ってしまうと、ますます不幸になるから。人の幸せを喜ぶことって、本当におススメ。嫉妬するなんて、もったいないよ、マジで。

 

でも、マイナス面もある。

他者のプラスが自分にもプラスだと分かれば分かるほど、他者のマイナスが自分にもマイナスだと分かるので、時には不安も増すのだ。「危ない人」を見ると、我が事のようにハラハラするのは、その為なんだよね。本当に心配。本当にやめてくれー!って思う。

でもまあ、仕方ない。それでもつながりを大切にする方が、トータルでプラスだもんね。

ほとんど、妄想ですが

根拠の薄い(無いわけではありません。)私の妄想だが、今の教育と世の中の流れが進むと、日本が大きく分断されてしまうのだろうと危惧している。

英語もプログラミングも堪能で、誰とでもコミュニケーションが取れ、地域や日本の文化に精通し、基礎学力も高く、道徳性も十分に養われており、自分のキャリア計画もバッチリ。こんな人は、まさにスーパーエリートだよなあ。そういう世界と伍するエリートを育てることも、これからの日本ためには必要だろう。

しかし、そんなものに誰もが成れるわけがない。「そうじゃない人」がほとんどだ。そうじゃない普通の人々は、今後、どんな人生が待っているのだろう。現在でも日本は世界に類を見ないほどの「派遣大国」らしいが、今後も非正規雇用がどんどん増えていくだろう。教員だって非正規雇用が当たり前になるだろうし。現在の「教員不足問題」はその始まりだ。不足の穴埋めは非正規や非常勤の講師で行うだろう。この流れは、多分、既定路線。つまり、今後の日本では、教員程度の「中の上」レベルの仕事は、非正規化していくんだろう。現に、役場関係の仕事ではどんどん非正規雇用が増えている。正規雇用と言っても終身雇用が崩れているし。

繰り返すが、あくまで私の妄想だ。

 

妄想は、私は何を見据えて仕事をしていくべきなのだろうか、という話に繋がっていく。地方公立学校の教員としては、「地方から中央に打って出るエリートの育成」も視野には入れておきつつ、でも、そこをど真ん中には置きにくい。それよりも「普通」の人間が「普通」に生きていけるようにしたい。ただ、その普通の姿は、現状の普通とは異なると思っている。私が妄想している「将来的な、普通の人々の普通の生き方」とは「自分達で場を作る生き方」だ。自分達が働く場を自分達で作る。自分達が楽しむ場を自分達で作る。地方分権を越えた地域分権。生き方の個別化と協同化。そういう生き方である。

場を作るのは、私も苦手。難しい。でも、普通の人間でも、協同することでそれが可能になると思っている。そして、教室を、その「練習の場」にしたい。

 

でもね。最近感じるのは、世の中の流れは私が目指すものと真逆に向かっている、ということ。アクティブ・ラーニングという言葉が出てきたときには「時代が俺に追いついてきた」なんてふざけ半分に喜んでいたのだが、どうやら、勘違いだったらしい。むしろ、協同的な営みが苦手な子供が増えているから、アクティブ・ラーニングなんだな。それでも阻止できず、今後はますます増えていきそうな流れ。しかも、教員にも苦手な人が増えていきそうな予感。まずいよね、これ。

 

ということで、これからも流れに贖うように生きていくしかないのだな。まあ、それが私の生きる道、なのだ。