『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

恐れなくていいのに。

今日の放課後、職員室で話したこと。多くの教員が「子供たちが言うことを聞かなくなったらどうしよう」と恐れている。同僚の先生が「うん。怖いです」と話してくれた。もちろん、私にも、そういう気持ちがないわけじゃない。

 

もし、クラスに「先生の言うことを聞かない子」が一人でもいる状況で「普通」の授業をしようとしたら、かなり困難になる。二人いたら、ヘトヘトになるだろう。三人いたら、私程度の力量なら完全にお手上げだろうな。

だから多くの教員は「先生の言うことを聞かない子」に、めちゃくちゃ気をつかっているように、私の目には映る。それが、ますます「先生の言うことを聞かない子」を生み出していく。それが教員の恐れを増幅していく。

 

こんな負のスパイラルに陥らないために、私がやっていることは何か。大阪では、そんな話をしようかと、考えている。

高橋尚幸先生から学ぼう!「なぜ今『学び合い』なのか」 2020年4月11日(大阪府) - こくちーずプロ

募集からそれほど日が経っていないのに、残席が少なくなっているようだ。増席はないのかな?(すみません、私は分からないのです)

年度始めの忙しい時期に、大変ありがたいことである。

 

なぜ、初日からアクセルを踏むのか

冬休みが終わり、今日から授業。勤務校は二期制なので、1時間目には「2学期後半始まりの会」があり、2〜5時間目は授業時数だった。

少し悩んだが「普通」に授業をした。ここ数年で、地方の学校でも「休み明けはやっと学校に辿り着いている子」が増えている印象。きっと都市部では、もっと前からそうだったろうし、割合も高いのかもしれない。そういう子のことを考えると、初日はアクセルを踏まず、最初は授業以外のこと、例えばアイスブレイクみたいな活動から始める方が良いような気もする。が、きっとそうしたら、長い目で見ると段々とクラスは傾くのだと、今までの経験から分かっている。だから、今日のような日も、えいやっとアクセルを踏むしかない。

そうすると、案の定、追い付けない子もでる。それでも何とかなるのは、『学び合い』のおかげだ。しかも、1時間1課題の『学び合い』ではなく、単元『学び合い』だからだ。最初からどんどん学びたい子はどんどん学び、最近はなかなかエンジンがかからない子は、自分のペースで進められるのだ。

もし、アクセルを踏まなければ、クラスを引っ張ってくれている子が走らなくなる。そうなったら、クラスはバランスを保てない。だから私は、初日からアクセルを踏む。

でも、多くの人が、アクセルを踏むことを躊躇してしてしまう。それはなぜなのか。

こういう話を、2月に札幌での堀先生のセミナーと、4月に大阪での樋口先生のセミナーでしたいと思っている。札幌では学校づくりと絡めて、大阪では『学び合い』の始め方と合わせてお話するつもり。

皆様、ぜひ、お申し込みください。

2月8日 これからの教育を考えるセミナー2020如月in札幌(北海道)

高橋尚幸先生から学ぼう!「なぜ今『学び合い』なのか」 2020年4月11日(大阪府) - こくちーずプロ

 

何度もやったから

勤務校は二期制なので、「3学期」がないのですが、明日からいわゆる3学期が始まります。

今日はサラッと学年で打ち合わせ。今後の進め方を確認しました。が、きっと忙しいなあ。忙しいのが分かっているので、憂鬱です。妻は私以上に仕事がハードなので、私が忙しくなると、息子と娘にしわ寄せがいきます。娘からは年度末に「次は、6年生担任はやめて」と何度も言われているにも関わらず、6年生担任は8回目。

それだけやったからこそ、6年生担任をやる度に忙しくなっていくのを感じます。そして、学校を忙しくしている原因は、地域でも保護者さんでも教育委員会でも、もちろん子供たちでもなく、学校自身なのもよーーーーーく分かります。

減らしたくないんです。変えたくないんです。ほとんどの教員はね。いや、私だってそういう気持ち、あります。

例えば、「多忙化解消のために、教職員を増やして欲しい」っていう意見。この声の裏側に、削減できない、しない、したくない、という本音が透けて見えます。教職員を増やして欲しいということは、莫大な予算を使ってでも、今やっていることを残したいってことですからね。

「◯◯の簡素化」もそう。簡素化して、スカスカに形骸化しても、今までのものを残したいんです。

「学校はスクラップができない!」と怒っている人だって、怒っている暇があったら、さっさと実現すればいいわけで。スクラップできないのは「学校」だけじゃなくて「自分」なのだと気付かなきゃいけない。「私はスクラップした!」と言っても、実際には「簡素化」程度が関の山。あ、これらは私自身のことだな。わっはっは。

 

結局は、学校が学校である限り、学校は学校を変えられないのでしょう。だって、学校なんだもん。学校が変わるためには、学校じゃないものにならなきゃいけないんだな。だから、学校は限界なのです。

なんて言ったら、色んな人から怒られちゃうな。わっはっは。と、笑ってごまかしとこう!