『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

授業を見る

わたしは授業中、「森を見て木を知る」作戦を意識することよって、学級の状態を「なんとなく」掴むことができるようになりました。学級全体の様子から、個人の状態を推し量るのです。
子ども達の様子を感じ取る力は、非常に重要だと思っています。けれど、とんたんさんがおっしゃる「看取る」もそうですが、そう簡単にできることではないと思います。「2次会」でも、「じゃあ、どうすれば見えるようになりますか?」という声もありました。


わたしの「見る」原点は、『学び合い』以前にあります。わたしの師匠であるY先生から言われた言葉が、わたしを育てました。
20代の時、わたしはY先生とTTで算数の授業を行っていました。わたしがT1,Y先生がT2でした。Y先生は、県でも有数の有名な算数教師でしたので、毎時間、研究授業をしているような気分でした。
いつもY先生に叱られていましたが、ある日も、こんな風に叱られました。
「nao_takaさん、どうしてあの時、Aさんを指名しなかったの?小指がぴくって動いたのに気付かなかったの?」
わたしが発問をして誰も答えられなかった時、ちょっとだけ反応した子が居たのを、わたしが見落としていたという指摘でした。「え!?そんなの、気付けないよ!」というのがその時の正直な気持ちでした。けれど、次の時間から、見ようとする努力はしていました。
そうすると・・・
見えるのです。子どもが「ぴくっ」とする時や「あ!」となった時が。
そりゃあ、教師は神様ではありませんので、全ての子の全ての反応を100%見ることは出来ません。けれど、見ようとしていなかった時には見えなかったものが、見ようとした時には見えるのも事実です。


まずは、見ようと思うことです。
そして、失敗することです。
だんだんと「勘」が働くようになります。勘というのは、当てずっぽうのことではなく、経験の蓄積から導き出されるものです。
また、わたしにとってのY先生のように「自分よりも見えている人」が見ているモノを知ることが大切です。隣のクラスの「普通のおばちゃん」のように見える先生も、実は、血気盛んな若造(=わたしのことです)よりも、よく見えていることも多々あります。
同時に、「見えないところもある」ということを肝に銘じる必要もあります。見えている部分にだけ気をとられることも危険だからです。


それでも見えない時は、どうすれば良いのでしょう。
きっと、それも「みんな」で見ることが最終的には大切でしょう。
けれど、それが出来る集団を作るためには、「見る」ことの大切さを教師が実感し、それを集団に求めなくてはいけないと思うのです。
学級の状態を子ども達自身が注視し、声を掛け合う。
そういう集団を作るためにも、わたし自身も見る力を高め続けたいと思います。