『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

勉強をしろ!

furu-tさんのブログを受けて。
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20121222/p1

「勉強は強制か,自主性か。」
わたしにとっては,もう,答えが出ています。


『学び合い』では,教師が課題を設定しますが,やり方は指定しません。
課題設定で子ども達を掴み,活動が始まったら離すのです。強制であり,自主的・主体的でもあります。
これって,実は『学び合い』に限りません。授業の上手い人ほど,掴むのが上手いものです。


課題を設定し,子ども達をギュっと掴む=「これをできるようになれ!」と強制する。
活動が始まったら「はい,どうぞ」と任せる=児童がそれぞれのやり方で,自主的・主体的に活動する。


この単純だけれど,奥が深い仕組みが分かっていないと『学び合い』は持続しません。授業の間口を絞りきれなくて,子ども達が学び始めることさえままならない授業になってしまうでしょう。



わたしは,授業を登山で考えています。
子ども達に山を登らせるとします。

標高数百メートルのハイキングに毛が生えた程度の山なら,「あの山に登るよ。頂上で食べるお弁当は旨いぞ!」という程度の「語り」で子ども達は登り始める(=学び始める)でしょう。得意な子が苦手な子を助けるのだって,それほど苦にもなりません。最初は2割程度が理解してくれていれば,なんとか登っていくんです。

しかし,2000m級の山では,そうはいきません。「弁当が旨いぞ」程度の語りでは,「登りたくない」の声が大きくなるでしょう。途中で動けなくなる子もでます。周囲に「何で助けないんだ!」と怒っても,周りだって背負って歩くわけにはいきません。下手をすると遭難してしまうでしょうから,上司や保護者からも非難の声が上がるのも時間の問題です。

それを納得させるには,その山に登ることに対する必然性が必要になるのです。
つまり,『学び合い』のレベルが上がったら,その学習にどんな意味があり,子ども達にとって本当に必要な物であるということを確信していないといけないのです。そして,必要だから登れ!という強制が必要になってきます。
その内,登っている方もその価値と楽しさを理解してきます。そうなってくると,子ども達は次々に山に登り始めるのです。


tontanさんの算数なんて,マナスル登頂みたいなもんです。
「好きに登って良いよ」じゃ絶対に登れるはずがありません。登らせる方も覚悟が必要です。でも,意外と,登っている子ども達は楽しんでいるんだと思います。登山家が何故山を登るのかが,一般人には理解できないのと一緒ですね。


「登りたい山を登っていいよ」では高まりません。
「登らないと,酷い目にあうぞ!」では楽しめません。
山の頂きに立つことの意味を知っている人間だけが,登らせることができるのです。


ただし,「俺が登って楽しかった,お前も登れ」という主観的な思いだけでは,子ども達からの「でも,僕たちは楽しくありません」の声に負けます。
飴と鞭で無理やり登らせることになります。
次々と登らせ続けるには,その山を登ることに対しての客観的な「正しさ」が必要です。それが,教員免許であり,学習指導要領であり,検定教科書です。
「この山に登るぞ。大丈夫。絶対に楽しいから。本当だよ。お前たちなら出来る。俺が保証する!よし,いけ!」
子ども達には,笑顔で強制してあげたいなあって思います。


ちょっと補足。
指導要領や検定教科書がない国もあります。でも,それは「教師が決めて良い」という法的なきまりがあるから,それが可能なのだと思います。