『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

持続向上型『学び合い』のススメ その3

お待たせしました。「その3」です!今回は「授業観」です。



3 持続向上型『学び合い』に必要な「授業観」


『学び合い』の授業観は,「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」というものです。これも、その通りだと思います。さて,『学び合い』が持続し,クラスを向上させていくには,
1 目標設定
2 評価
3 環境の整備
をどうすればよいのでしょうか。具体的なことを書くと、いくら買いても終わらないと思いますので、今日は大まかなことを書きたいと思います。


・課題を出すのは教師。でも、問いを持つのは児童。
まずは目標の設定についてです。
『学び合い』は児童の主体性を大切にする考え方ですが、なぜ、目標の設定は教師が行わなければならないのでしょうか。何を勉強するかも子ども達が考えてはいけないのでしょうか。
その答えは、「子ども達が考えてもいいけれど、でも、駄目」です。
意味不明ですね。
というのは、集団がパワーを持つには、管理者(教室では教師)からミッションを課せられなければいけないのです。管理者から「これを成し遂げなさい」という課題が出され、その課題解決に向けて動く中で、集団の結びつきがだんだんと強固なものへと変わっていきます。
だから、教師が「これを成し遂げよ!」という課題を与えなければ、集団は「仲間」にならず「烏合の衆」で終わってしまいます。また、その課題が簡単すぎても、結びつきは強まりません。一致団結しなくても、解決できちゃうからです。
そうなると、「学習課題を考えよ」というミッションを課せば、考えさせてもいいのですが、ちゃんと評価しなければいけません。
わたしは、課題にはこだわりはないので、子ども達には考えさせていません。その方が効率よく授業が進みますし。



じゃあ、子どもの主体性はどうでもいいのでしょうか。
いやいや、そんなことはありません。目標は教師が設定しますが、子ども達の主体性はちゃんと発揮されます。
どこかと言うと。
課題解決の過程で、子ども達はたくさんの「問い」を持ちます。
「どうやれば、解決できるかな」「こっちはどうなのだろう」「これって、こういうことかな」
そういう問いは、教師が「引き出そう」として引き出せるものではありません。自然発生的なものです。教師は、その発生と解決の過程に積極的に関与すべきではありません。それが「学習は子どもに任せる」ということだし、そこに主体性があるのだと思います。
ただし、そういった問いも、解決への動きも、教師が目標を設定するからこそ生まれるということは忘れてはいけないと思います。
何もせずに放っておいて、勝手に勉強するなんてことではありません。



・「学級目標」は教師の思いの現れ(子どもの思いではない)
学級目標も同じです。「子ども達が考えてもいいけれど、でも、駄目」です。
学級目標というものは「教師の思いの現れ」なのです。子どもの思いではありません。なぜなら、子ども達は、その学年の終わりを経験したことがないのですから、どこを目指すのかを「子ども任せ」にしても、その目標が適切かどうか、判断することはできません。
子ども任せの結果、どんな姿を目指すのかが曖昧な学級目標になってしまうことってありませんか。教師の思いが注入されていない状態で子ども任せにすると、そうなるのだと思います。


・失敗は成功のもと。とは言うが、本当にそうなっているか。=本当の評価って何だろう
古田さんがよく「目的は“まと”,目標は“しるべ”」ということをおっしゃていますよね。これは「なるほど!」と思いました。非常に分かりやすい。
買い物で例えてみましょう。
「スーパーに買い物に行きます。目的はカレーの材料を買うこと。目標は、1500円以内に納めること」
この場合、カレー粉を買い忘れてしまったら、目的を達成したことにはなりません。買い物は「失敗」です。
でも、金額が1550円だったとしたらどうでしょう。それは「失敗」でしょうか。
わたしはそうは思いません。
「今日は良い肉にしすぎたのかもしれない。次はチキンで我慢だ」
そう振り返り、反省し、次に生かすことが重要です。そして、その振り返り=自己評価が適切かどうかを判断するのが教師の評価の重要な役割のように感じます。例えば、こんな風に。
「本当にそうかな。タマネギが家にあったのに買ってしまったんだよ。反省すべきは、そこじゃない?どうすべきだったのか考えてごらん」


カレーじゃ分かりにくいですね。
授業で言えば……。
「よし!それでいいんだ」と背中を押すこと。
「本当にそうかい?」と足を止めさせること。
「それでは駄目だ」と方向転換させること。
「いける!もっとだ!」と要求すること。
そんな教師の思いを伝えることが、日々の授業の中で必要と成る「評価」のように感じています。
そういう評価があってこそ、子ども達は、失敗を生かしながら学ぶことができるのです。
あとは、こちらも読んで頂けると嬉しいです。
http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/nao_taka/20121231


・単元レベルで授業をデザインしよう。
「失敗を生かせる授業」に必要なのは、「繰り返し」学べることです。
「もう一度!」というチャンスがなければ、失敗は生かせません。
その究極の一つはとんたん式算数だと思いますが、あの授業が出来るくらいなら、こんなブログは読んでいないでしょうから、もっと現実的な方法を。
それは、「単元のレベルで授業をデザインする」ということです。
「この時間は何をやろうかな」ではなく「この単元では何をやろうかな」というレベルで授業を考えてみて下さい。
それだけで、授業は大きく変わります。
詳しく書くと、とてつもなく長くなるので、とりあえずこれくらいで止めておきます。
ちなみに、わたしが月に1回やっている学習会では、次回はこのネタを扱う予定です。福島県相馬市近辺にお住まいの方、次回は1月30日(水)ですので、興味があったらメール下さい。(って、居ないでしょうけれどね)


「環境の整備」で大切なのは、失敗を次ぎに生かせることだと、わたしは考えています。


・全員ができるなんて授業は、大したことない。
助け合い型『学び合い』の時期には、「1時間で全員ができる」という授業は有効だと思います。それは、クラスの中に「俺なんて誰にも助けてもらえないもん」と感じている子がいるからです。そういう子を救う、というミッションも大切です。
自分も集団の一員だ!このクラスは、この先生は、仲間はずれを良しとしないのだ!という安心感は集団には必要です。
でも、1時間の中で全員ができるような課題は、レベルが低いのです。そういう課題がずっと続けば、勉強の得意な子が本気を出さなくなります。そうなると、学級全体の学習が緩みます。
だから、単元のレベルで考えて下さい。
とは言っても、「単元の終わりにみんなができる」という課題にするわけじゃありませんよ。
躓いたり転んだりしながらも前に進んできた子ども達に、「よし!よくここまで努力できたね。次は、もっといけるよ!」と認めつつ、もっと高い要求をするには、単元のレベルで授業を組み立てていくのです。『学び合い』でよく言う「単元を預ける」というのともちょっと違います。
うーん、どうしても抽象的になってしまいますね。
具体的なことは、今後、ちょこちょこと書いていきます。
あ!可能なら、8月の『学び合い』フォーラムで話せるかもしれませんね。