『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

分かり合うということ

坂内さん(id:tontan2 さん)が少し前に「内容は学び合えない。姿は学び会える」というようなことをおっしゃっていました。
なるほどなあ、と思います。
似たようなことをある知人と話している中で感じました。そのことをツラツラと。


最近、
「ベクトルの違いは分かり合える。でも、レベルの違いは分かり合えない」
ということを感じます。
以前は、逆だと思っていました。
同じ方向性を見ている人なら、レベルが違っても、じっくりと話し合えば分かり合えるはずだ。
でも、方向性が違う人とは、どんなに話し合っても分かり合えないだろう。
そう思っていました。
でも、ある人とわたしは、進んでいるベクトルは違うにも関わらず、わたしの言うことを理解して貰えました。
その人とのやり取りを通して、たとえ方向性が違っても、性格が違っても、立場が違っても、同じレベルで物事を考えている人となら話せるのだなあと感じました。(もしかすると、相手はそうは感じていないかもしれませんが^^;)
逆に、同じベクトルで進んでいるはずの人が、なぜそんなことをするのか理解できないことも。


例えるなら、一流のサッカー選手と一流店の寿司職人が対談をしたらお互いに得るものが大きいけれど、一流店の寿司職人と回転寿司の店員さんが一緒に寿司を作っても、なかなか分かり合えない感じ。もちろん、どちらが偉いってわけではありません。どちらも、お客さんに「美味しい」と思って欲しいという方向性は一致しているはずです。でも、この場合は「値段」のレベルが違う。そうなれば、提供する商品は全くの別物になるのは当然ですよね。


お互いに「子供のため」と言っているのに、なかなか分かり合えないことって、よくありますよね。そうすると、相手が「子供のためと言いながら、自分のことしか考えていない駄目な人間」のように感じてしまうけれど、実はそうじゃないのかもしれません。
あ、念のために言っておきますが、「わたしが一流で、相手が三流だ」って言いたいわけではありませんよ。
教師のレベルって、技術で決まるんじゃないと思っています。だって、技術の違いなんて、極一部のスーパー名人教師を除けば、ほとんどの教師はドングリの背比べだと思うんです。もちろん、わたしも含めて。
教師にとって最も大きなレベルの違いは、どこまでを意識して見ているか、ではないでしょうか。
子供のためと言っても、クラスのある一人の子のためなのか、最大多数の最大幸福のためなのか、クラス全員のことなのかというレベルの違い。または、今この時のためなのか、数週間〜数か月先を見ているのか、1年先を見ているのか、卒業後も見ているのかというレベルの違い。
そういう意識レベルの違いで、分かり合えたり、分かり合えなくなったりするんじゃないかなあ。
だから、分かり合えない相手を「自分のことしか考えていない駄目な教師」なんて風に決めつけてしまってはいけないんですよね。
相手を断罪する前に、その人がどこまでを意識して発言しているのか、行動しているのかを見極めるようにするべきなのでしょう。そうすれば、相手の真意がちょっとは分かるんじゃないかなあ。まあ、仮説ですけれど。


ただここで、次の問題が発生。ここまで考えていながら、
「でも、何で俺がそこまで配慮してやらなくちゃいけないんだ!?」
って考えてしまいかねない、わたしの性格の悪さが問題。
修行の日々は続くのです^^;