『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

「はい、どうぞ」

わたしは全ての教育活動を『学び合い』で行っているつもりです。
各教科はもちろん、道徳・総合・特別活動・給食・清掃も『学び合い』です。
というか、『学び合い』は方法ではなく、考え方であり経営理論なのです。教科が変わったからといって、そうそう教師の考え方が変わるものではないと思いますし、コロコロ変わってはいけないとも思います。


とは言いながら、あらゆる場面で
「はい、どうぞ。」
が出来ているわけではありません。
教科は比較的簡単に「はい、どうぞ」ができます。学級開きから半年が経ちましたので、国語・社会・算数はもちろん、体育や音楽でも当然ながら「はい、どうぞ」です。
でも、『学び合い』とは言いつつ、「はい、どうぞ」だけでは上手くいかないことがあります。
そして、教科以外だと、それがさらに増えます。


道徳や特別活動で「はい、どうぞ」が上手くいかないのは、1回だけの活動が多いからかなと思っています。わたしは、「子供達は有能である。」という言い方よりも、「子供達は大人と同じくらい有能であり、大人と同じくらい愚かである」という言い方の方が好きです。子供達は有能でも、何でもかんでも上手くいくわけではありません。子供達が経験したことがないようなことを、試行錯誤するような時間が無い中で、何とか成功させようとすると、わたしが出ざるを得ないと感じることがあります。そこはやっぱり、亀の甲より年の功ですから。
総合や給食、清掃で「はいどうぞ」が上手くいかないのは、「教科書」がないからかなあと思っています。日本の教科書は良く出来ています。だから、例えば算数では「○ページから○ページの問題を全員が終わらせる。」という課題でもある程度は学習が成立してしまいます。けれど、教科書という指標がないと子供達の生活経験や個人的な価値判断が前面に出てきてしまう場面がちょくちょく訪れるように感じています。そんな時にも、どうしてもわたしの出番となってしまいます。


教科でもそうです。
極たまにですが、「誰も出来ていない」とか「正解が広がっていかない」なんていう時があります。学びが停滞しているのが見て取れる、なんていう時です。
そういう時にはやっぱりわたしが口を挟みます。(なので、自分の『学び合い』は「足して2で割る『学び合い』」かもしれないと感じる時もあります。)
しかも、今年はそれがやや増えています。ここ2〜3年担任していたクラスは20名以上で構成されていたのですが、今年は16名。この違いが大きいように感じています。当然ですが、集団は大きい方がパワーがありますよね。16名だと「もう少し人数が欲しいなあ」って時があります。(20数名でもありましたが。)


『学び合い』の醍醐味は、やっぱり「はい、どうぞ。」だと思います。
昨日、地域の研究会で授業提供をしたのですが(特別活動です。)、終わってから、参観者のお一人から
「高橋先生は、3回しか口を開かなかった。」
と言われました。さすがにそれは大げさですが、でも、任せたからには可能な限り口を挟みたくないし、挟むべきではないと思っています。
けれど、どうしても出番をゼロには出来ません。残念ながら、教師が出ていかざるを得ない場面があります。
ただ、それを見極める力をつけて、可能な限り減らしていきたいとは思っています。
そして何より、どうしても出ていかなくてはいけないと感じた場面でも、教師が関与することによって生じるマイナスは絶対にあるのだという意識は持っておくようにしています。「出ていかないことによるマイナスよりも、出ていくことによるマイナスの方が小さいという消極的理由によって出ていくだけなのだ。」そういう意識です。



※忘れないようにメモしておきます。
次のネタは、「高橋流子供の役割分担法」です。