『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

才能がないわたしでも、一人も見捨てたくない


昨日、久しぶりに「超本気の語り」をしました。
普段はなるべく短く語るようにしています。でも、昨日は違いました。約30分、語り続けました。そうしなければならないような「問題」が起きたからです。
正確には、その問題は何年も前からあって、子供達の間で凝り固まっていました。それをほじくり出して表面化させるためには、教師としての才能がないわたしには、30分も語り倒すという蛮行が必要だったのです。

こういう時、自分は本当に教師に向いていないと心の底から落ち込みます。
もっと早く対策が打てなかった自分にがっかりします。担任してから半年もかかってしまいました。
もっとスマートに解決に導いてあげられない自分が恥ずかしくてたまりません。「先生に任せれば、何でもたちまち解決してやるよ。」なんて言えません。
子供達に泣いて謝りました。クラスの子供達も半分くらいの子は泣きながら聞いてくれました。でも、聞いていない子もいますよ。そりゃあ、そうだ。だって30分間もこんなおっさんが熱く語っているんですからね。聞いてくれる子が居るだけで感謝です。


本当は、もっとスマートに済ませたいのです。2〜3分さらっと話したら、子供達全員が感動してよくわかってくれるような。どんな問題もたちまち気づき、すぐさま解決してしまうような。そんな教師に成れるものなら成りたい。でも、残念ながら、わたしはそうではありませんし、これからも成れないでしょう。
簡単にあきらめたわけではないのです。才能がないなりに努力してきました。一応、それなりの結果も出してきたつもりです。東京書籍さんから賞を頂いけた程度には、頑張ってきました。自分としては結構頑張ったと思います。若い頃には、こうやって必死に研鑽を積めば、それなりの教師に成れると思っていたんだけどなあ。いつまで経っても駄目教師なままです。やっぱり、わたしには才能がない。


そんなわたしでも、クラスの子供達を一人も見捨てたくないと、心の底から願っています。
本当に、見捨てたくないのです。全員が幸せになって欲しいのです。わたしが担任している間はもちろん、その後もずっと。
今日は、前任校の学習発表会を見に行きます。今年の4月に卒業させた子供達にも会うでしょう。昨年の4月に卒業させた子供達にも会うでしょう。中学校に行って、元気にやっているだろうか。幸せだろうか。そう考えると、動悸が激しくなります。自分の才覚の無さが、教え子の人生に暗い影を落としているかもしれない。そんな不安を感じます。
また、夏には25歳となった初任者時代の教え子達と飲みました。楽しい時間でした。でも、まだ若く未熟だった自分を思い返し、申し訳なく思う気持ちの方が強くありました。
幸せになって欲しいと願い、そのために、その時その時に出来ることをやってきたつもりです。自分なりに努力してきたつもりです。けれど、わたしには出来ないことが多すぎます。現在担任している子供達の問題も解決できないでいるのに、過去に担任していた子供達の今を引き受けることなんて、わたしには絶対無理です。それなのに、本当に一人残らず幸せになって欲しいのです。力不足で身の程知らずなのは百も承知の上で。だから、
「頼む。みんなでやってくれ。俺は、お前たち全員に幸せになって欲しいいんだよ。今も、将来も幸せであって欲しい。けれど、俺には出来ないんだ。俺には、お前たちを幸せを保証することなんてできない。俺の言う通りにすれば間違いない、なんて言えない。だから、自分たちでやってくれ。自分たちで幸せを作れる集団、作れる大人になってくれ。」
そう語るしかないのです。
語っても、全員が理解し、納得し、了解してくれるわけがありません。ある程度の子供達(それは多分、いつも言っている通り2割くらいの子供達でしょう。)が分かってくれたら万々歳なのです。昨日は半分くらいの子が泣きながら聞いてくれたのですから、それはもう奇跡と言いたいくらい。

こんな暑苦しい思いを30分間も浴びられ、本当にわたしのクラスの子供達は不幸です。教師に才能がないと、そのクラスの子供達は苦労します。申し訳なさすぎて、昨夜は眠れませんでした。