『学び合い』(二重かっこ学び合い)とは上越教育大学教職大学院の西川 純(にしかわ じゅん)教授が提唱する教育理論です。その理論はたった3つの考え方が基本となっています。その3つの基本的な考え方は、以下の通りです。
第一は、「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、 より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」であるという学校観です。
第二は、「子どもたちは有能である」という子ども観です。
第三は、「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任 せるべきだ」という、授業観です。
『学び合い』の手引き 西川純
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1 学校観
学校観とは「学校の役割って何なのだろう」ということです。少し古いデータですが、「子どもの学校外での学習活動に関する実態調査報告( 平成2 0 年8 月 文部科学省) 」によると、小学校1 年生から中学校3 年生の概ね8 割の児童が学習塾・通信添削教育・習い事などの「学校外での何らかの学習活動」を行っているそうです。ということは、「読み書きそろばん」と言われるような知識は、学校以外の場でほとんどの子が得ているといことになります。また、理科教室やスイミングスクールなど、いわゆるお勉強以外のことを学ぶ場も、学校以外に数多く用意されている時代になりました。
もちろん、そういった学校外の学習活動を全ての子が利用できるわけではありません。けれども、8 割というのは無視できない数字です。教員が「勉強を教えてあげる」だけでは尊敬されなくなった、つまり教員の社会的地位が下がっている原因のひとつかもしれませんね。
では、そういう時代に学校で学ぶべきこととは何なのでしょう。『学び合い』ではそれを「多様な人間と折り合いをつけて生きていく能力」と捉えているのです。授業は「折り合いをつけて生きていく」ための練習の場と考えます。
2 子ども観
子ども観とは、「子ども達をどんな存在と見ているか」ということです。
教員なら誰しも「子どもってすごいなあ」と、感じる瞬間があるでしょう。でもそれは、「子どもなのにすごい」ということでしょうか。それとも、「人としてすごい」のでしょうか。その捉え方の小さな違いですが、そこが大きな違いなのです。
『学び合い』では、大人と子供に本質的な違いはないと考えます。
私が担任した子の中で、「俺は馬鹿だから、何も覚えられない」と言っている子がいました。例えば、その子は歴史上の人物名を覚えるのが苦手でした。「卑弥呼」や「聖徳太子」の時点で躓いていました。それを持って、「俺は馬鹿だ」と言っていました。
ところで私は、植物の名前が覚えられません。樹木や草花の名前は、自宅の庭に植えたものでさえ忘れてしまいます。理由は簡単です。植物に興味がないのです。
歴史上の人物の名前を忘れてしまうあの子と、植物の名前を忘れる私。どこが違うというのでしょう。能力的に差があるのでしょうか。私は無いと断言します。その証拠に、その子は野球は大好きで、野球選手の名前は大量に覚えていたんですから。
『学び合い』では、「子どもは大人と変わらない。大人と同じくらい能力があるのだ」と考えます。と言うと、「子どもの失敗」をあれこれ言う方もいそうです。そりゃそうです。子どもも失敗します。だって、大人と変わらないということは「大人と同じくらい愚かだ」とも言えますから。
以下、続く。