『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

子ども観の違い

「授業には、○○が大切だ」

とよく言われます。

「教材研究が大切だ」「児童理解が大切だ」「場の設定が大切だ」「計画的な板書が大切だ」「意図的な指名が大切だ」などなど、枚挙にいとまがないですね。

 

私は、これらが「不要だ」とは言いません。むしろ、多くの人が「大切だ」と言うのですから、私の好き嫌いはあるけれど、でも肯定的にとらえています。ただ、大切なことだからこそ、教員が行うのではなく、児童が行うべきだと思うのです。

教材研究をするのも、児童自身。だから、私は予習を求めます。それに、授業自体が「子供達が教材研究をする時間」と言えます。

児童理解=友達理解をするのも、児童自身。だから、私は仲間を思いやることを求めます。

場の設定も児童自身。だから、私は机の配置やグループ作りを児童に任せます。

計画的な板書も児童自身。だから、私は黒板に書くのも、ノートに何をどう書くかも児童に任せます。とはいえ、黒板に何かを書く子はめったにいません。使いにくいんでしょうね、黒板って。

意図的な指名も児童自身。だから、私は誰に質問するかは児童自身に決めさせます。

 

「そんなこと、子供達にはできないよ。教員こそがやるべき」と考えるか、「重要なことほど、教員一人じゃ限界があるでしょう。児童集団に任せるべきだよ」と考えるか。その溝は極めて深いのが実情かもしれません。

例えば、教材研究。国語の物語文の解釈なら「教員が一人で考えたこと」レベルなら、きちんと集団に任せれば、それを超えるでしょう。また、「教員が先行実践を研究し、さまざまな実践を参考に考えたこと」レベルだって、その先行実践や教員が持っている知識を隠すことなく児童集団に示せば、「先行実践を基に教員が考えたこと」を超える可能性は十分にあります。少なくとも、肉薄はするでしょう。ちょっと歯切れが悪いのは、私自身がそういう実践にあまり興味がないので、あくまで「予想」だからです^^;

けれど、「そうだろうな。児童集団にはそれだけの力は十分にあるよな」と本気で考えるか、「いや、無理でしょう。子供だもん」と考えるか。

やっぱり、そこに違いがあるんですよね、子ども観の違いが。