『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

目立たなければいいの?

『学び合い』に対する疑問として、こんな言葉を聞くことがあります。

「自由にグループを組ませたら、友達の少ない子や一人ぼっちの子が辛いのではないか。」

なるほど。もっともな考えです。『学び合い』では学習するグループを特に指定しません。自由に組ませます。「一人でやりたいからやっている」という子もいますが、でも、中には混ぜて欲しくても混ざれない子もいるでしょう。そういう子は、辛いだろうと思います。一人ぼっちは辛いですよ。

でもね、辛いからこそ、『学び合い』をやるべきだと思っています。

だって、1年生の1学期以外だったら、その子はそれなりの時間を学校で過ごしているはずです。それなのに「友達が少なくて一人ぼっち」なんですよ。このまま普通に学校生活を送っていったら、まあ、かなりの確率で「友達が少なくて一人ぼっち」のままでしょう。学校だけではなく、卒業後も。

そういう子は、人と関わるのが苦手です。自分から「混ぜて」と言えません。だから、授業でグループを作る時にも一人なのです。ということは、「人と関わるトレーニング」が必要なのです。じゃないと、もしかしたらずっと「一人ぼっち」のままなのですから。

では、そのトレーニングはいつやれるでしょう。

私は授業だからこそ、やれると思います。

教員が「休み時間にみんなで遊びましょう」と言っても、一人の子は一人です。集団の中で浮いています。また、休み時間は学校生活のごく一部。非常に時間が短い。トライ&エラーを十分に行う余裕はありません。

だったら、授業中、教員の目が届く中で(つまり、時には教員のフォローが可能な中で)人と関わるトレーニングを行える方が、絶対に良いと思います。

私も、過去にそういう子を何人も見てきました。そういう子は「分からないところある?」と聞かれても、最初は何も答えられないのです。そういうところから、毎日毎日、毎時間毎時間の積み重ねを経て「ここ、教えて」と言えるようになっていくのです。

 

私のクラスはそうやってものすごい時間を積み重ねています。1500時間以上、学び合っています。でもね、それでも時には関係性が苦しくなります。(17名の小さな集団ですから、関係性の多様さには限界があるのです。なので、異学年『学び合い』が必要なんですよ)そういう苦しさもちょっとした向上も『学び合い』ならすぐに見えます。

「あー、あの子とあの子は最近、上手くいっていないんだな」

「あの子は自分から関われるようになってきたな」

というように。

いわゆる一斉授業なら、そういった小さな変化は見えにくくなります。ましてや、一人ぼっちの子を目立たなくすることは容易です。でも、目立たないってだけです。休み時間や放課後、帰宅後に一人の子は一人ですよ。そして、卒業後も。

 

『学び合い』は、「より多くの同僚を得る」経験を学校で積むことを最重要視します。「一人ぼっち」なのはその子が悪いのではありません。学級全体の闇です。一人ぼっちを放っておく学級なのです。それをちゃんと乗り越えられるようにするのが、教員としての極めて重大な責務です。「絶対条件」と言ってもいいかも。それを乗り越えさせられないなら、『学び合い』は危険です。辛いだけです。

 

 「自由にグループを組ませたら、友達の少ない子や一人ぼっちの子が辛いのではないか。」

と聞かれたら、私は答えます。

「はい。めちゃくちゃ辛いと思います。だからこそ、絶対に乗り越えさせなければなりません。それを見えにくくして誤魔化すようでは、教員失格です」

って。

ただ、そう言うと、「俺は、一人の方が好きだ」という人が絶対にいるんですが(笑)。ちなみに私自身がそうです。

一人の子が、一人が好きで一人でいるのか、それとも本当は一人が辛いのか。それを見極める能力って、難しいけれど重要だと思っています。