『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

教えることができますか?教科以外のことを。

『学び合い』に対して
「子供達が主体的に話し合っている、意欲的に話し合っているのは認めますが、でも、それでは学力は上がりませんよね。教えるべきところはしっかり教え、話し合う場は別に設けるべきでしょう」
という意見は、典型的な「反論」の一つだと思います。
一応、学び合うことに対しては肯定的なので、こちら側としても「そうですね」なんて受け入れやすい反論だとも言えますが、でも、大きな誤解だと感じます。


わたしにとっては、真逆です。
教師が「しっかり」教えても伝わりきらないから、『学び合い』なのです。
以前のわたしは、教師の力を高く見積もり過ぎていました。ほとんどの(おおざっぱに言って、7〜8割の)子供には教えられると勘違いしていたのです。
でも、勘違いでした。
実際には、もっともっと少ないことが分かりました。2割もいたでしょうか?いなかったと思います。これは、自分の授業をシビアに振り返らないと、見えてきません。授業中につまらなさそうにしている子供達から目を背けずにじっと見ないと分かりません。わたしは自分の限界を知ったので、「教えるべきところは教える」なんて言えないのです。
例えば、漢字の学習だってそうなのです。漢字なんてただの暗記。『学び合い』よりも、教師が教えた方が効率が良い。
そう考えていた時期もありました。でも、実際はそうではありませんでした。
わたしが教えれば教えるほど、分からなくなる子を生み出していたのです。この辺りのことを、これに書きました。

頁数の関係で、書ききれないことだらけ&中途半端な印象になってしまいましたが、入魂の原稿です。
ああ、もっと心おきなく書きまくりたい!(Blogに書き散らすのと、多くの人の心に届けようとして書くのでは、大違いですね。)



さて。
これが、例えば「あなたの住む街の魅力を紹介しなさい」なんて課題だったら、どうでしょう。教師が教えた方が効率が良いのでしょうか。「あなたの将来の目標と、それを実現する意義、実現するための具体的な道程を説明しなさい」なんて課題だったら?教えることは可能でしょうか。
もちろん、教えられる人は教えれば良いと思います。
でも、わたし程度の教師では無理です。


今なら分かります。
「教師が教えることができる」と勘違いしていた時期は、「教師が教えられる程度のことしか教えていなかった」のです。それは何かというと、「教科の学習」です。教科の学習内容は教師にとって教えやすいものなのです。大切だから教えているわけではありません。
本当は、もう「教科の学習」なんてどうでも良い世の中です。それを認めると、なぜ「総合的な学習の時間」や「言語活動の充実」がきて、次に「アクティブ・ラーニング」なのかがちょっとずつ見えてきます。
ちなみに、インタラクティブ・カリキュラムの根底にも「教科の学習なんて、どうでもいいじゃん。っていうか、教科なんて存在しないじゃん!」という思想があるのです。


教科以外のことを学ばせようと思ったら、どうやって教えますか?教えることができますか?教師一人、喋りとチョークで?
わたしには無理だなあ。