『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

私はしなやかに生きていけるのだろうか

我が家の庭には、アオダモの木が植えてあります。木製バットに使われるあのアオダモです。と言っても、バットにできるような太さはありません。それでも、他の庭の木と比べると枝の「粘り強さ」が違います。折ろうとしてもなかなか折れず、裂けもせず、グイッと曲がるのです。なるほど、このしなやかさが、木製バットに向くのでしょう。他にも様々な加工品に使われたそうです。

「若い頃は誰でもそうだ」と言えるのかもしれませんが、かつての私の働き方は、間違いなく「堅かった」と思います。「自分が正しいと思うこと」を前面に出し過ぎて、要らぬ衝突を生じさせたり、周囲に迷惑をかけたり。働き方が下手くそだったのですね。その結果、ポッキリと折れることも多々ありました。まあ、それもこれもやっぱり「誰でもそうだ」と言えそうですけど。

ただ、いつまでも下手くそなままで良いわけがないのも、誰でも同じでしょう。私もここ数年は、「もっと上手く」と自分に言い聞かせながら働いています。ですので、石川晋さんの新刊「学校でしなやかに生きるということ」は、タイトルを見た瞬間にドキリとさせられました。

学校でしなやかに生きるということ - フェミックス

まさに、自分が今、心がけていることであり、それはつまり「できていないなあ」と思っていることだからです。

もしかすると若い方は、石川さんほどの方が「しなやかに生きること」を「とても難しくなってきていることを肌で感じている(「はじめに」より)」なんて、信じられないかもしれません。私も30代前半の頃だったら「石川晋さんくらい有名になれば、何をやっても誰にも止められないし、自分が正しいと思うことを押し通せるんだろうな」と勘違いしていた可能性もあります。けれど、今はよくよく分かるつもりです。
例えば。石川さんは「集団の中の個」でありつつ、膨大な量の学年通信を出すために、様々な策を講じていらっしゃいます。他の実践でも同様でしょう。私はそれを読んで「ああ、やっぱりそうか」と感じました。

私が目指していること、心がけていることは「集団にとって『得』な存在になる」です。それによって多少の我儘を許してもらう、というのが私の策。でも、石川さんがおっしゃる「しなやかに生きる」と比べると、私はまだまだ堅いし、重いし、不器用だなあと感じます。

10年後の私は、もう少し粘り強くしなやかに働けているのでしょうか。それとも、まだ堅いままで、ぶつかったり折れたりしているのでしょうか。
アオダモは生木でもよく燃えるそうですから、燃え尽きてしまうことがないようにだけはしたいものです。