『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

「愛が届く距離」ということ

昨日と一昨日、自分のやっていることを可能なかぎり「ちゃんと」言葉にしてみようと試みましたが、でも、難しいですねえ。

昨日の記事に「好かれない」と書いたのですが、「じゃあ、具体的にはどうなればいいの?」って感じる方が多そうだし、そういう「言葉足らず感」があるなあと思います。嫌われた方がいい、なんてことはないんですから。


私は「子供達に好かれなくてもいいけど、信用されなきゃ話にならん」と思っています。
“尊敬”という言葉も浮かんだんですが、「子供達に尊敬されるのが大切。尊敬されるようにしています」なんて私には言えないし、これだと完璧超人じゃなきゃダメだ!と言っているみたいで、何だか嫌だなあ。

私は過去に仕えたW校長先生という方が「管理者としてのモデルの一つ」なのですが、私がW校長に感じている感覚は「好き」なんてものではなく、まさしく「信用」でした。

「この校長先生の言うことは信用できる。この人の言葉を指針にして、学校が動いていけば、学校が良くなるな」
そういう感覚です。

 


以前の私は、先輩から「学校にふらっと遊びにきた兄ちゃん」と表現されたことがあります。子供達と仲良くなり、楽しく過ごすことはできます。が、それだけでした。それでも何とかなっていたのは、子供達に育つ力があるからであって、私は邪魔していただけです。

今、子供達との距離を取るようにしているのは、昨日も書いたように、平等でありたいと思ったのがスタートでした。

ただ、遠いと怖いんですよね。子供達は自分のことをどう思っているんだろうか。嫌われてるんじゃないか。そんなことが気になります。だから、近くに居て「先生が好き!」というメッセージを受け取りたくなっちゃう気持ちは今もあります。「好き」と言われれば安心もします。
それでも、以前と比べて距離を取れるようになったのは、「離れていても子供達に愛を届ける」自信があるからです。全ての子供達が私のことを好きなわけがありません。そんなことを目指しません。それよりも、私がちゃんとクラスを愛していること、将来の幸せを心から望んでいると伝わることの方がよっぽど大切です。

もし、子供達に私の想いが届かなかったら子供達に「この人の言うことは信用できる」なんて思ってもらえないんじゃないかな。

愛が届くなら、遠ければ遠いほどいいなあ。だって、いつかは卒業し、遠く離れて見えなくなるんですよ。

私の理想の教員像は「居なくてもいい人」です。

その場に居なくても、愛が届く教員になりたい。卒業後、私の存在がなくても、私のことを忘れても、愛だけはほんの少しは残って欲しい。そう願って居ます。

「一人も見捨てたくない」
それが『学び合い』における「愛」のキーワードでしょう。だから私は、この言葉を滅多に使いません。だって、私の教員としての愛を象徴する言葉ですから。愛を至近距離からぶつけていいのは、極々親しい人だけでしょう。

なんだか、ごちゃごちゃしてしまいました。このテーマは難しいな。私の力量だと扱いきれない話ですね。反省。
明日は仕切り直して、もう少しすっきりとしたことを書きたいな。