『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

聞いてみたいが、聞かない。

たまたま、『学び合い』に関する次のような意見を、続けざまに見聞きした。

  • 「全員ができる」まで学習するのは、「出来る子」にとっては時間の無駄だし、面倒だ。(だから、『学び合い』は良くない。)
  • 『学び合い』のようなコミュニケーションを求めれる学習は、「友達と関わることが苦手な子」を救えない。(だから、『学び合い』は良くない。)

なるほど、世の中の人には、そう考える方もいらっしゃるのか。と、すっかり『学び合い』脳になっている私は、不思議にすら感じてしまう。

 

前者の方には聞いてみたい。

「あなたの授業では、『こっちの子に合わせて授業を行うとあっちの子に合わない。あっちの子に合わせて授業を行うと、こっちの子に合わない』というジレンマは起きていないのですか?」

と。見えていないのだろうか。もしかしたら、教員の説明を黙って聞いていることを「善」だとし、その説明を「もう知ってるよ」と聞いていない子や「さっぱり理解できん」と離脱している子の存在が、黒く塗りつぶされているのかもしれない。

喧嘩になるのは嫌だから、聞かないけど。

 

後者の方には、こう聞いてみたい。

「友達と関わることが苦手な子は、いつ、関わり方を身に付けるのですか?いつ、その子と関われる仲間を得るのですか?そのまま卒業させて、良いのですか?」

と。

「友達と関わることが苦手な子」がいると「教員が関わる」のが良しとされる場面を多く見てきた。が、本当にそれで良いのだろうか。

世の中に出たら、黙っていたら何の助けも得られない。教員としか関われなかった子が、その先、どうなるか考えないのだろうか。

「あなた、それは無責任過ぎやしませんか?」

なんて言ったらやっぱり喧嘩になるから、聞かないけど。

 

もちろん、『学び合い』はこれらの問題が起きない、なんてことはない。時間の無駄はあるし、関わるのが苦手な子もいる。

しかし、私はこう考える。

「全員ができる」までの時間が無駄で面倒なら、子供達が工夫すればいい。だから、子供達にそう求める。特に「勉強が出来る子」にとっては、そういった工夫が出来る人間に育って欲しい。

また、一人でいることも、一人の子を放って置くことも、子供達が将来的に損することになると確信しているから「関わるのが苦手」なんて言わせていられない。「最低限は関われる人間になれ」と求める。特に人と関わることが苦手な子にとっては、大切な大切な「練習の場」だ。教員がその場を奪っていいのか。簡単に奪う教員が多くて、正直、腹が立つ。

 

『学び合い』では問題が起きないわけではない。人が集まれば色々あるものだ。

それを

「教員が解決してあげたら、児童の成長にとってマイナスだ。だから、可能な限り教員が手を出すことは減らしたい」

と考えるのか、

「教員が解決してあげないと、子供達が可哀想。だから、可能な限り、教員がやってあげたい」

と考えるか。この違いなのである。

もちろん、私だって手を出すこともある。だが、それを恥じる。私の手助けが必要な集団しか育てられていないのは、私の力不足だからだ。そして、私が手を出さざるを得ないということで、子供達の幸せが遠ざかるように感じるからだ。

それ故に、『学び合い』が広まって欲しい。教え子と我が子の幸せのために。