『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

無理しなくてもいいのですよ。

昨日のエントリーの続きと言えないかもしれないが、その流れで。

私が『学び合い』をある程度安定的に継続できるようになったのは、以下の3点を意識してからだ。

  1. 人は、本能的に学び合える。だから、ことさら学び合わせようとしなくても、必要であれば学び合う。
  2. ただし、人が最初に学び合う人数は、大抵は3~5人程度。一人の子も少なくない。その人数を増やすには、練習が必要。
  3. 集団は放っておいても広がらない。教員の働きかけが不可欠である。

特に、学級づくりの初期には、この認識は不可欠だと感じている。この3点が分かると、逆にこんな「失敗」が予想できる。

<失敗例1>

T「よーし!今日から『学び合い』にチャレンジだ!課題の設定が教員の大切な仕事だから、子供達が学びたくなるような課題を考えるぞ!・・・・・・よし!できた!明日の授業はばっちりだな。」

~次の日~
C「これ分かる?」
C「分かんない」
C「俺も分かんない」
C「先生、どうやればいいんですか?」
C「先生、意味が分かりません。」
C「先生、これで合っていますか?」
T「先生に聞かずに、友達に聞いてごらん。」
C「……。」

T「子供達が学び合えていない!これは課題が分かりにくかったんだな。明日の授業はもっと頑張るぞ!」

~次の日~
C「これ分かる?」
C「分かんない」
C「先生ー、分かりません。」
T「友達に聞いてごらん。」
C「聞いたけど、分からないって言われました。」
T「もっと色々な人に聞いてごらん。」
C「…(何で教えてくれないんだよ!先生が教えるのが面倒なだけなんじゃないの!?)」
C「…(学び合いなんて最悪だよ。)」

T「課題を工夫しても工夫しても、子供達が学び合えていない!!!全員が学び合える課題なんて、毎日6時間分も考えられないよ!!『学び合い』なんて俺には無理だ~!!!!!」

かなり単純化して書いているが、本当に起こり得るだろう。「学び合わせよう」と工夫すると、教員に聞く子が増える。課題を工夫すればするほど、「答えは教員の頭の中にしかない」問題になるからだ。一斉授業なら、それを最後まで隠し、上手に「種明かし」することで、「おおー!」と感心してもらえる。ここに喜びを感じるタイプの教員も少なくない。そういう課題で「学び合え!」と言われたら、子供達はきつい。
課題を工夫することが悪いのではないのだが…。

 

<失敗例2>

T「よーし!今日から『学び合い』にチャレンジだ!本には『課題はシンプルでいい』って書いてあるから、『教科書の問題が全員できる』とか『プリントの問題の解き方を全員が説明できる』とかにしてみよう!」

C「これ教えてー。」
C「いいよー。」
ワイワイ、ガヤガヤ
T「おお!最初からいい感じで学び合えているな!『学び合い』って最高だ!よし、帰ったら、TwitterFacebookに書き込もう!」

~帰宅後~
T「ええと…『今日は『学び合い』に初挑戦。子供達の姿に感動!『学び合い』最高です!』…うわ!いいね!がいっぱいついた!リツイートもされてる!やったぜ!」

~しばらくすると…~
T「今日の『学び合い』もイイ感じだな。・・・あれ?あの子は一人だな。」
C「ぽつーん」

~次の日~
T「あの子は今日も一人だな」
C「ぽつーん」

~次の日~
T「あの子は今日も一人だな」
C「ぽつーん」

~次の日
T「やっぱりあの子は今日も一人だな。よし、話を聞いてみよう」
T「君は一人でやるのかな?」
C「はい。」
T「分からないことはないの?」
C「大丈夫です。」
T「じゃあ、教えに行かないと。」
C「はあ…。(一人でやって何が悪いんだよ。学び合いなんて最悪だ)」

C「(あれ見た?一人でやると先生に注意されるみたいだぜ)」
C「(じゃあ、俺たちはずっと一緒にやろうぜ)」
C「(おう。とりあえず机くっつけておこうぜ)」
C「(こんなんで怒られるなんて、学び合いってやだな)」
C「(めんどうくさいよな)」

 

多分、多くの教員は、一人でいる子が気になる。気になってそこを「いじくる」のだ。いじくるのは、子供達のためなのだろうか。教員の「不安感」を和らげるためではないか。同僚の目、保護者のクレーム、そういうものを気にして、一気に解決しようとすると絶対に失敗する。
もちろん、一人の子を何とかしたいという気持ちは大切だし、それは否定しないけれど…。

<失敗例3>

T「よーし!今日から『学び合い』にチャレンジだ!しっかり語って始めるぞ。」
T「『学び合い』を始めたけれど、なんだかイマイチ学び合っていないあ。」
C「学び合いなんて何やっていいか分かんないよ。本でも読んでよ」
C「ねえねえ、昨日のあの番組見た?」
C「あー見た見た!」
ワイワイガヤガヤ
T「やっぱりイマイチだよな。でも、学び合っていない子をいじくるなって、なおたかって人がブログに書いていたな。よし、子供達を信じて待とう!」
ワイワイガヤガヤ
T「やっぱりイマイチだよな。というか、どんどん酷くなっていく。でも、授業中はじっくり待つ!最初と最後に語る。それが『学び合い』のセオリーだぜ!」
ワイワイガヤガヤ
T「うーん、うるさい。でも、待つ。信じて待つ!」

C「(なんかうるさくない?)」
C「(遊んでる奴もいっぱいいるもんね)」
C「(俺、真面目にやるの阿保らしくなってきた)」
C「(俺も。問題は分からないし、周りは騒がしいし)」
C「(学び合いってただの授業放棄だよね)」
C「(こんなんでテスト大丈夫なの?)」
C「(大丈夫なわけないよ~)」

T「信じて待つ…。これ、本当に大丈夫なの?」

まあ、大丈夫じゃないだろう。保護者か管理職から「ストップ」がかかるのは時間の問題だ。そうなったら、いったん、止めた方がいいだろう。
こういう状況、中学校・高校はもちろん、小学校でも中学年以上なら十分に起こり得るだろう。低学年の場合はもっと「無邪気」に振る舞うので、違う意味で危険だ。


さて。こういう「失敗」に対する助言はどうすれば良いのか。
時々、メールやメッセージを頂くが、正直、迷う。
第一に、多くの場合、メールだけだと状況が分かりにくい。見ていないのに突っ込んだ助言をするのは、無責任でとんちんかんに成る可能性が高い。
第二に、状況は分かっても、駄目出ししにくい。顔が見えない状況で、斬るのは怖い。改善せずに傷つけて終わりになってしまう危険性が高い。

私がこんな「失敗例」を書いたのは「こういうことは、理論上、起きて当然なのですよ」と伝えたいからだ。質問のメールを受け取るたびに思う。私のような者にまでメールをくれるのは「本気」の方だけだ。だから、なんとかしてあげたい。メールで伝えるのは難しいが、逆に言うと「もし、私があなたの同僚だったら、100%助けれあげられるのだけれど」と、苦しくなる。

でも、これだけは伝えておきたい。
『学び合い』は難しい。この3つの失敗例に似た状況になっても、それはあなたが「駄目な教員」だからじゃない。2学期に失敗した方も、それで自分を否定しないで頂きたいのだ。
普段は「『学び合い』最高!」みたいなことを書いているが、一方で「でも、『学び合い』じゃなくてもいいんじゃない?」とも思っている。
無理しなくてもいいのですよ。