『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

本当に勉強して欲しいと願っているのだろうか

昨日書いた「失敗例3」に関して、なおたかはどうすればよいと感じているのか?というご質問を、Facebookにて頂戴した。ありがたいことである。

長くなるので、Facebookではなく、こちらにアップすることにした。

 

まず最初に断っておきたいのが、失敗例3のような問題は、中学校、高校だけで起きるのではない。私の書き方が悪かったのだが、小学校低学年であっても起きる。私は小学校3年生以上でしか『学び合い』をやったことがないものの、断言しておく。1年生でも起きる。

これを、もし「小学生なら『勉強しろ』と言えばするだろうが、中学生は言ってもやらない」と考えている教員がいたら、そのクラスでは絶対にやらない子がでる。だって「やらない」原因を「中学生」であることと考えているのだ。中学生が小学生になることはあり得ないのだから、改善の見込みはない。

遊ぶ子がでるのは、年齢に関係ない。そう考えることが、まずは必要だろう。

 

じゃあ、年齢ではなく、何が原因か。

遊ぶ子がいるのは、遊ぶのが好きな子がいるからだろう。勉強が好きな子もいれば、遊ぶのが好きな子もいる。両方好きな子もいれば、事情があってどちらも楽しめない子もいる。それで自然じゃないか。まずは、子供達の多様な好みを認めるべきだ。

 

みんながみんな同じだったら気持ち悪い。だからこそ、考えて欲しいことがある。

A君とB君がお喋りをして、全く勉強していなかったとする。じゃあ、その時、二人の「勉強したくない」気持ちは同じだろうか。そんなはずはない。同じだったら気持ち悪い。どちらかが相対的に「より勉強したい」気持ちがあるはずだ。と言うとたまに「いや、こいつらは二人とも全く勉強する気なんてないのです。」という教員と出会う。が、あり得ない。二人の児童生徒が全く同じ気持ちなんてことはない。絶対にない。あり得るとすれば、「いや、こいつらは…」なんて言う教員がやる気を奪っているのだ。子供達の気持ちの分からない教員が何と多いことか。

まあ、教員が理解できないのは仕方ない。正直に言えば私だって分からないことの方が多い。

私が悲しいのは、A君もB君もお互いにお互いの気持ちが分からないということだ。せっかく「授業中も一緒に喋っている仲」なのに、「ああ、こいつは本当は今、ちょっとだけ勉強したいんだな」と気持ちを察してやることができない。「俺、この勉強はやりたいんだよね」と伝えることもできない。だから仲良しの振りをして、楽しい振りをして、お喋りをしているしかない。それが悲しいのだ。

さらには、学級には他に何人もいるのに、「A君って、実はこの勉強が好きなんだよね」と分かってくれている仲間がいない。周囲との間に溝がある。だから、A君とB君は仲良しの振り続けていく。これも悲しい。

周囲だって似たようなものだ。そういう二人を見て見ぬ振りをし、数人で固まっている。そのグループ以外に行き場はない。それはつまり「仕方なく作っているグループ」なのだ。そんなの、仲間って言えるのか??

 

勉強していない子とそれを放っておく子を見ると、私はこんなことを考える。

そして、こうなった「これまでの生活」を想像する。そして、「このまま仲良しの振りを続けたら将来はどうなるか」を想像する。すると、本当に苦しくなる。心配で寝られなくなる。

だから、心から求める。

「なあ、勉強しようよ。勉強しなかったらもったいないよ。勉強するから、チームワークが上がるんだぜ」

そうは言っても、なかなか勉強しない子もいる。そりゃそうなんだけれど。

勉強しない姿を見て、私は本当に心配で心配で堪らなくなる。勉強が分からないことが心配なわけではない。周囲の人間の気持ちを分かろうとしないまま、誤魔化しで人間関係を作っていることが心配なのだ。時には教室で涙が出るくらい心配する。

「なあ、勉強しようよ。もったいないよ。」

「学校は勉強するところなんだよ。だから、勉強して『お前のおかげで分かったよ』『お前のおかげで気づけたよ』って経験を積み重ねるから、お互いの信頼が高まるんだよ。お喋りをしてても、仲間になんてなれないよ」

「お前はお喋りをして楽しいかもしれない。でも、お前の隣の奴は本当にお喋りをしたいのか?テストで、もう少し高い点を取りたいって思ってるんじゃないのか?」

「喋ってる人も、本当は喋りたいわけじゃないだろう。本心はどうなの?」

こんなことを(一気に言っても伝わらないから)繰り返し伝える。

そうなのだ、私は本当に心から勉強して欲しいと願っているのだ。それは黙ってみんなと同じことをして欲しいわけではない。周囲の人間の気持ちを理解し、周囲の人間に貢献できるようになって欲しい。そして、その「周囲」の範囲を広げていって欲しい。

そう心から願い、繰り返し伝えるから、それを理解して、より多くの人と関わろうと動いてくれる子が生まれる。そういう子を生み出すには「学習内容を分かって欲しい」という程度の願いでは無理である。「人とは違う授業をやりたい」程度でも無理である。

教員が本気で求めたら、子供達は動いてくれる。本気じゃなければ、子供達は動かない。

 

キツい言い方かもしれないが、多くの教員は、勉強しない子の将来を心配するあまり涙が止まらない、なんてことは無いだろう。まあ、それで良いのかもしれない。こんな変な教員は少数派でいい。

ただ、私の同僚や元同僚が『学び合い』を継続できているのは、自分では泣かなくても、そういうことを心底心配し、時には泣いたり取り乱したりする馬鹿な私を理解してくれているからだ。そういうレベルで「勉強しようよ」と求めるなおたかのような教員がいるのだと間近で見て実感してくれている。だから、私と離れても、『学び合い』を継続できているのだろう。

 

もし、自分では「泣くほど子供達に勉強して欲しい」と思えない人は、そういう人と繋がってみてはどうだろうか。世の中には私なんぞよりはるかに強烈に願っている人もいる。もっと増えて欲しい。

ただし、ただ繋がるだけじゃ足りないだろう。その願いをどこまで理解できるか、だ。