『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント 繋がる国語科 アクティブ・ラーニング
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nao_takaの『縦横無尽』

福島県の小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。

当ブログの内容は、全てなおたかの個人的見解です。


一人じゃ難しいなら

昨日や一昨日のようなことを書くと、アクセス数は増えるのだが、評判は下がるんだろうな、とFacebookを見ながら思う。まあ、仕方ない。実を言うと、Facebookとのつき合い方を変えようかと考えている。SNSというものが面倒になってきた。ま、これについては別の時にでも書こう。

 
さて。
私は、現状では「一人で『学び合い』を継続すること」は極めて難しいと考えている。

私だって一人だとしんどい。
一人で始めた時は、本当にキツかった。だから、私は同僚の中から後輩を捕まえて「弟子」にし、『学び合い』をやらせてきた。少々強引に誘った場合もあれば、『学び合い』を教えて欲しそうなのに教えず、「教えてください」と頼まれるまで待った場合もある。それは、相手に合わせた作戦だ。策を練って、『学び合い』をやらせたのだ。
難しいなら、誰かと一緒にやればいい。子供達に求めていることを自分でも実践したわけである。
転勤やら何やらでまた学校で一人になると、また辛くなるので、その度に新たな後輩を捕まえてきた。なかなか捕まらない時期は本当に辛かった。かなり心がやさぐれた。

後輩を捕まえる時に気を付けていたことがある。
私みたいなタイプが学校に何人もいることはない。しかも私は小規模校勤務が続いているのだから尚更だ。よって、捕まえる後輩は「変態」ではない。捕まえるのは「有能」な人だ。現状で『学び合い』が難しいのは、子供達の幸せを求める「心」と、それを実現するための「理論」を両立させなかればならないからだと私は考えている。「心」は私が補うことを前提に、「理論」を説明したら分かってくれる「有能」な後輩を捕まえるのだ。
こう書くと、意外だと感じる人が多いかもしれない。「心がある人に、理論を教える方がいいんじゃないの?」と感じるかもしれない。
けれど、私はそうは思わない。というのは、ほとんどの教員は、もともとは「心」があったはずなのだ。初任の時には「子供達が伸びないのは、自分のせいだ」と感じていただろうし、自分の不甲斐なさに落ち込んだり、涙したりしていたことだろう。その涙が、教員を続けていく中で凍っていったり、乾ききったりしてしまったのではないだろうか。
私には「大嫌い」な人がいた。私から見れば、教え子を平気で切り捨てているように見える人だ。しかし、ある同僚から、その人が“酷い先生”だというのは同意された上で、「けれど、あの人だって最初からあんな先生じゃなかったはずだ。一生懸命な先生なのは間違いない。あの人をあんな風にしてしまったものは何なのか。それを見つけ、改善していくことが必要だろう」と説教され、大いに反省したことがある。そうなのだ、最初から酷い先生なんて、極々一部だ。(ゼロと言えないのが私の弱さ…)
多くの人が心を失っていくのは、その心を具体化する理論が無いからじゃないのか。苦しい経験を重ねる中で、徐々に心が乾いていくのではないか。と仮説を立て、私は「心が乾ききっていない上に、理論を理解できそうな人」をターゲットに選んだのである。

なんて言うと「ストーリー」としては美しいけれど、半分は後付けの理由で、「気が付いたら、無意識にそういう人を選んでとっ捕まえていた」とも言える。何でこの後輩を弟子にしたのかな、と考えてみると、「ああ、有能だからだな」と後から気づいた。
こっちの言い方が真実に近いかもしれない。あんまり美しくないけど。


最近、嬉しい話を聞いた。私の「弟子」の一人であるRさんが、ある場所で実践発表を行った。それをたまたま「仙南の会」のGさんが聞いてくれた。Rさんには数年前にみっちりと『学び合い』のことを教えたけれど、その後、Rさんの出産や私の転勤もあり、ほとんど連絡は取っていない。が、Rさんは「したたかに」でも「着々と」実践を重ねていった。今年度当初には「新しい学校長が『学び合い』に否定的だ」と相談を受けたことがあったが、その後は実力で、学校長を納得させた。大したものである。(Gさん、Rさんはなかなか良い先生だったでしょう?でも、変態ではありませんよね?)

そういった「弟子」の活躍もあり、勤務地周辺では私一人で始めた『学び合い』も、少しずつ広がっていった。私の知っているだけでも、隣接する市町村で合計7名が『学び合い』を実践している。「高橋先生のまねをして、ちょっとやってみた」というだけなら、もっと多いし、「どうやらあの人は、『学び合い』をやっているようだぞ」という人も発見した。
そうやって「やる人」がどんどん増えていったら、中には「力不足」の教員が『学び合い』にチャレンジすることもあるだろう。現状では、残念だけれど、そういう人を救えない。やってみたけれど続かない、となるだろう。今もいるんだろう…。だが、同じ学校に複数の『学び合い』実践者が居れば話は別だ。私が「弟子」に救ってもらったように、助け合って実践できるだろう。
私は授業の中で、「人と人が助け合い、補い合って学ぶ」姿を見ている。子供達ができて、教員に出来ないはずがないとも思っている。それを可能にするためには、もっと広げていくしかない。比較的『学び合い』をやれそうな人から広げて、その点を繋げていきたい。
私だって一人じゃ難しい。だから、広げることで、私も楽になる。相談できる人や質問してくれる人が、近くにいるのといないのでは、大違いだ。質問してもらうことでも、自分の実践が大きく変わる。だから、質問されることもありがたいのである。


ちなみに、最近、『学び合い』について一生懸命に質問してくれる方がいる。
私の勤務校の校長先生である。
とっても嬉しいし、本当にありがたい。