『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

多様な人と多様につながる

みゆき会の古田さんがおもしろいエントリを書いています。

manabitudukeru.seesaa.net

私は「一人も見捨てない」集団を作ることを目指しています。西川先生は

『学び合い』の本体は「一人も見捨てない」という強烈な願いです。

ともおっしゃっています。『学び合い』で「一人も見捨てない」という願いの追求を - 著者インタビュー - 明治図書オンライン「教育zine」

でも、古田さんは「中には、見捨てられた方が得だと考えている子もいる」と書いています。(私は「見捨てられた方が得」という子は「人との関わりが苦しい子」と受け止めています。)さて、私の考えと古田さんの考えは相反するものなのでしょうか。

『学び合い』による授業を始めたばかりの時期は、それは「全員が分かるまで全員で教え合う」という形で具現化させます。もちろん、それを求めるのは教員です。
しかし、『学び合い』が進む中で、全員が分かるためには、別に全員で教え合う必要がないことが露わになってきます。例えば、分からない子が数名しかいない場合。これだと、数名が教えればいいのですから。もちろん、その数名が教えるだけで完全に分かるわけではありません。でも、そんなことを言ったら全員が教えれば完全に分かるというわけでもないでしょう。
また、その勉強がめちゃくちゃ得意な子は、人に教えない方が自分の点数が上がります。教科書レベルの課題の場合、教えた方が点数が上がるのは、一般的な小学校教員と同じくらうの「頭」の子でしょうね。それ以上の子は、人に説明なんてしなくてもできちゃいます。


私が時間と共に「全員ができる」を求めなくなっていくのは、こういう場面を何度も経験する中で、全員が分かるまで全員で教え合う『学び合い』を嘘くさく感じる子が出てくるからです。嘘臭さに蓋をしてしまうと、子供達からの支持が下がります。そうならないように、次の段階に進まなくてはいけません。
私が考えている『学び合い』の次の段階は「多様な人が多様につながっている『学び合い』」です。分からない問題がある時、聞ける相手は一人だけより複数いた方がいい。理科で学ぶ相手と算数で学ぶ相手は異なる方がいい。休み時間に遊ぶ相手は日替わりがいい。繋がりが多様にあった方がいい、という考え方です。
その中に、人との関わりが苦しい子がいつの間にか巻き込まれていくのが理想です。巻き込まれていく、と言っても、それは強い同調圧力ではありません。もっと自然でさりげないものです。1日の中で数人でいいから、関わりが苦手な子に「調子どうよ?」と聞いてくれる仲間がいて欲しいのです。1日の中で数回でいいから、その子の様子をちらっと見てくれる仲間が欲しいのです。ささいなことでも構いません。でも、つながって欲しい。
多様なつながり、とはたくさんの人とつながるだけではありません。色んな関わり方があって欲しいと願っています。

それは、人との関わりが苦しい子を劇的に変えることはないでしょう。でも、周囲の子が分かって欲しい。その子は人との関わりが苦手で苦しいけれど、でも、敵ではないのです。。そういう子も仲間として大事にして欲しいのです。だって、人間、何があるか分かりません。数年後・数か月後、もしかしたら明日、自分に大きな悩みが出現し、人の顔を見るのが辛くなるかもしれません。そういう時に、「どうよ?」とさりげなく聞いてくれる仲間がいるか、様子を伺ってくれる仲間がいるか。それは、普段の授業で決まるのですから。
それがあれば、極端なことを言えば、孤独死や餓死が自死を防げるかもしれない。そう考えて私は授業をしています。