今日、あるところで話を聞きながら、悲しくなった。
私は、その話がほとんど理解できなかった。私以外の聴衆も同様のようだった。話し手は、話の上手い方だった。「適切な声の大きさで」「流暢にスラスラと」「淀みなく」話していた。でも、発せられた言葉は、聴衆に届かず、どこかに流れて消えていくように感じられたのだ。話し手の方も多分、それを感じていただろう。でも、そんなことを全く気にせず、ますます回転が上がっていった。
その方にとっては、理解してもらうことは重要ではなく、「きちんと話すこと」が目標だったのかもしれない。見事なまでに「きちんと」した話だった。私には真似できない、本当に整った話だ。でも、聴衆(少なくとも、私と、私の周辺で「全然、理解できなかったね」「難しかったね」「途中でわけが分からなくなった」と感想を述べていた方々)にとっては、ほとんど心に沁みないし、刺さらないし、引っ掛かりもしなかった。
一方で、話し手の方は、話し終えると満足感を得ているようにも見えた。
両者の間にある小さな断絶が悲しかった。そして、受け取られることなく消えていく言葉が悲しかった。
私は最近、発信が滞っている。
それは多分、自分が発信した言葉が誰にも受け取られることなく消えていくことが、怖いからなのかもしれない。