授業中、誰かが
「あー、やりたくない!」
「面倒くさい」
なんて言う時がある。
以前はそんな言葉を聞くと、ちょっとカチンときた。時には、
「ふざけたことを言うな!」
なんて怒ってしまったこともある。
「やりたくない」という言葉は、いったい誰にも向けられたものなのだろう。
以前の私は、クラスの中心は私だと思っていたから、その言葉も私に向けられたものだと感じていた。だから、私を否定されたような気分になって、怒りがわいた。
今の私は、クラスの中心から外れたいと願っている。そうは言っても、クラス単体での授業では、わたしが前面に出なければならない場面が多いのだけれど、でも、私中心のクラスは嫌だと思っている。だから、子供達が発する言葉の全てが、私に向けられている、なんて思い込みは、ほとんどなくなった。まだゼロにはできていないけれど、立ち止まって考えるだけの余裕は持てるようになった。
もしかしたら、誰かに対するSOSなのかもしれない。
もしかしたら、ネガティブな気持ちを切り替えるためなのかもしれない。
もしかしたら、めちゃくちゃ嫌なことがあって、言葉にせずにいられなかったのかもしれない。
もしかしたら、本当に、担任である私に対する不平不満なのがしれない。
そんな様々なことを考える。もちろん、完全な答えを見つけられたことはない。でも、自分中心に受け取って、苛々したり、怒ったりすることは、ほぼ無くなった、と思う。「ほぼ」というのは、まだまだ感情の起伏があるから。
「あー、残念」
「あら、もったいない」
そんな気持ち。勉強楽しいのに。せっかく仲間が誘ってくれているのに。仲間を増やすチャンスなのに。
「わざわざ、損する行動をしないでよー」
と心配になる。心配のあまり、いまだに苛々していまうこともある。
損か得かという感じ方も、私の価値観。どこまで行っても、結局は、私中心なのかもしれないな。