多くの教員は「子供主体の授業」と言いつつ、子供達に授業を任せられないようです。
また、少なくない教員が「子供主体の授業」と言いつつ、ただの放任になってしまうようです。
私は、『学び合い』を継続する中で、「子供主体の授業」とはどういうことか、試行錯誤してきました。10年目の今考えているのは、「授業の主体はあくまで教員なのだ」ということです。どんなに子供達を主体にしようとしても、それは「私が与えた主体性」に過ぎません。私が何を語るか、私が何を見るか、私が何を語らないか、私が何を見逃すか。私の言動で授業が大きく変わってしまいます。10年間、ほとんどの授業を「はい、どうぞ」の子供達に任せる授業で行ってきた私ですが、やっぱり、私の影響力をゼロにはできずにいます。
が、ゼロにする必要もないのでしょうね。
任せよう、任せようと思いつつ、任せきれない。でも、私の力には限界がある。そんな私を超えて、皆に幸せになって欲しい。
その思いが願いに変わり、そして、祈る時、やっと少しずつ手放せるようになりました。どうしても消せない私の存在を、祈りに費やすのです。私の手の届かないところまで願い、祈り、そして託す。そうすると「子供達が授業を作る」という言葉の意味が分かってきました。同時に、過去の私が考えていた「子供主体」「子供が作る授業」という言葉が、いかに浅かったか、それも思い知りました。
手放せないと分かったから、手放せる。
こんなことを書いて、理解してくれる人はほとんどいないと思います。もしかしたら、
「ほら見たことか。『学び合い』の実践者だって、子供達に任せられないって言っているじゃないか」
と大きな誤解をされるかもしれません。でも、どうしても書いておきたくなったのです。今年は、様々な試みが裏目に出てばかりいます。それを助けてくれているのは、いつも子供達です。感謝の気持ちを込めて、こんなことを書きたくなったのでした。