私は、自分自身を「ちょっと授業が好きなだけの平凡な教員」と自己評価している。知識も、技能も「平凡」だ。子供達を惹きつける魅力も特にない。やる気がないわけではないが、全てを投げうって教育に身を捧げようなどとは思っていない。平凡、凡庸、凡人教員である。
私が勤める学校も「普通」だ。地域の子供達が集まってくる、どこにでもある公立小学校である。
でも、私のクラスは「普通」ではない。今年は転勤直後なので、かなり遠慮しながら担任してきたが、やっぱり「普通」ではない。今月は、地域の若い教員が4名参観に来てくれたが、驚いて帰っていった。「驚愕」と言っても大袈裟じゃないかもしれない。
今日も、訳あって教室に来てくださった学習支援員さんが
「みんな、こんなに書けるんですね!」
と驚いていた。私は笑顔で
「そうなんです!優秀なんですよー、このクラス!!」
と自慢した。
平凡な教員が普通の学校で勤めているのに、普通じゃないクラスになる。そこには何の秘密もない。あるのは理論だけ。『学び合い』の理論である。
私は、『学び合い』の「子供集団は有能である」という子供観とは、言い換えれば「教員は自分の凡庸さを認めつつ、それでもなお、諦めない」ことだと考えている。私は凡庸だ。それでも、全ての子供達を幸せにしたいと願っている。
だから、西川先生のこの言葉が、本当に嬉しい。
私だって、全ての子供達を幸せにするスーパーな教員に、成れるものなら成りたかった。そういうカリスマに憧れたこともある。が、無理だと悟った。可能性はゼロ。しかし、だからと言って、子供達の幸せを諦めたくない。そう思った時、『学び合い』に出会ったのだ。「一人も見捨てない」という言葉が、心に刺さった。
とは言え、まだまだ私は「一人も見捨てない教育」を実現できていない。道のりは遠い。今までも、これからも、凡人なりに足掻いていくしかない。先はまだまだ長いから、共に歩んでくれる人が、少しでも増えて欲しい。そう願うのは、きっと私が凡庸で、一人では何も成せないと分かっているからだ。