『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。2月に単著発売予定「流動型『学び合い』の授業作り」発売

こんな時だからこそ

少し前からずっと「書きまとめたいなあ」と考えていることがあって、頭の中でグルグルと捏ねくり回している。簡単に言うと「何故、学び合うことが必要なのか」という話だ。

 

10年ほど前、勤務していた自治体が国の研究指定を受けて、かなりガチにICT教育に取り組んだことがある。また、パナソニック研究財団の助成を受けて、坂内さんや古田さん達と、遠隔授業に取り組んだこともある。一人1台のiPadを使って授業したり、教室と教室をつないで私のクラスの子供たちが坂内さんのクラスの授業参観をしたりなど、今の水準で見ても、そこそこ先進的なことをやっていたと自負している。

その時に感じたのは「これは広まらないな」だった。「これ、いいね!」と感じている人と、そうじゃない人とで、反応が二分したからだ。中には「ICT機器を有効に使うためには、チョーク&トークの技術が必須だ」なんて話も出たなあ。

それから10年。やっぱり広まってないよね。

 

今「オンライン授業」を経験している子供たちやそれを見ている保護者の反応も、似たような雰囲気を感じる。オンライン授業に手応えと更なる可能性を感じている人もいるけれど、同時に「やっぱりオンラインなんてダメじゃん」という声も聞く。まあ、あたふたして、何も動き出さない私の勤務校の超保守的な状況を何ともできていない私は、本当に情けないんだけれど。

 

アフターコロナは、オンライン授業や広域通信制の学校が大きく広まる、という一面も、当然あるだろう。でも、反動で「やっぱり顔を合わせる学校が一番!」という声も大きくなるのは、容易に想像できる。

じゃあ、そういう二極化が起きた時、「どっちも大切だよね」なんていう誤魔化しではなく、どんな考え方で子供たちの前に立てばいいのか。それを本気で考えていきたいのだ。大雑把に言えば、「だからこそ、もっと自然な学びを考えていくべきだ」ということであり、「だからこそ、学び合うことを人々は求めるのだ」ということ。

かなり本気で、構想を練っている。

質問を送ってくる方へ

誤解を減らせるように、結論から書いておきます。
『学び合い』の授業に関する質問や相談は、答えられる範囲でお答えします。
授業以外に関する質問や相談は、お答えしかねます。すみません。


さて。
ここ最近、様々な方から届いた「質問」や「依頼」への返事を、やっと送り終えることができた。著書を出してから、ちょくちょくメッセージやDMが届くのだ。
「本を読んで、シラバスを作ってみた。これで良いか知りたい」
「子供たちのレポートにどうフィードバックすればいいか教えて欲しい」
「子供たちに最初に語ることを考えてみた。付け加えるべきことがないか、教えて欲しい」
という授業に関するものあるし、
「異学年合同の『学び合い』を職員会議で提案するので、参考になる資料を送って欲しい」
「コロナの影響で、カリキュラムを見直すことになった。新しい教育課程について、高橋はどう考えているのか、教えてくれ」
「コロナ対策について、職員会議に出す案を作った。見て欲しい」
というような、授業以外のこともある。

 

せっかく質問をいただいたのだから、可能な限り答えたいとは思っている。
が、しかし、なかなかそうはいかない。
一つは時間の問題。私に寄せられる質問など、それほど多くはない。でも、質問に答えるには、読んで、考えて、文章を打って、とそれなりに時間がかかる。まあ、少々お待ちいただければ、捌けない数ではないのだけれど。
もう一つは、確信を持って返事ができないのが申し訳ない。同僚に授業の質問をされた場合、その同僚のキャラクターやクラスの様子を見ながら質問に答えられるし、その答えが的外れだった場合は、後から軌道修正もできる。しかし、ネットでの質問は、基本的に単発だ。質問者さんがどんな方かもよく分からないし、クラスの様子もさっぱり分からない。そんな状況で答えられるのは、『学び合い』のセオリー通りのこと=『学び合い』の本に書いてあることしかない。そんな答えで良いのなら、本を読んでもらう方が確実である。
最後は、本当の解決にならないということ。クラスのことを相談するなら、クラスの子供たちにするのが一番いい。学校のことを相談するなら、同僚にするのが一番いい。実は相談ではなく愚痴を聞いて欲しい、ということもよくある話だが、だったら親しい友人にするのがいい。諸々の事情により、そうはいかない場合もあるだろうし、だから私に相談をなさっているのだろうから、可能な限り、お答えしますとも。こんな私でよいのなら。でも、関係性の薄い私がお答えできるのは、あくまで一般論。個人的なつながりのある方以外には、当たり障りのない答えしかできない。

 

ということで、『学び合い』の授業に関する質問や相談は、答えられるものだけお答えしようと思っている。「すみません、それは私にはお答えしかねます」という返事でも、許していただきたい。もちろん、私が力になれるなら、できる範囲で知恵を絞ってお答えする。
また、授業以外に関する質問や相談、例えば学校のことや保護者対応のことは、基本的にお答えしかねる。責任が取れないので。すみません。

 

重さの原因

私の心が重いのは、三度目の挫折が怖いからだ。

 

最初の挫折は、震災のあとだ。東日本大震災を機に教育は変わる!学校は変えられる!と思って懸命に動いた。が、結果は大失敗だった。学校は変わるどころか、どんどん苦しくなっていった。後になって、私の動きが周囲を苦しくしていた面もあるのだと気付いた。

私は昔、熱心に熱帯魚を飼育していた。何年も洗われていない水槽を不用意に掻き混ぜると、底床に潜んだ汚れが舞い上がり、次々と魚が病気になってしまう。私は、淀んだ底床を掻き混ぜてしまったのだ。

 

私は作戦を変え、実績を作ることにした。論文を書き、雑誌原稿を書き、本を書き、そして、学校では量的にも質的にも「他の人が引き受けない仕事」を引き受け続けた。そのおかげで、人の三倍は働けないことを思い知ったけれど(死んじゃいます。)、二倍なら出来ることが分かった。

「意見で大切なのは、何を言ったかではなく、誰が言ったか、だ」

周囲に納得してもらえるだけの「働き方」をしようとした。が、それもあっという間に挫折した。転勤が続き、私はエイリアンになってしまったからだ。おかげで、転校生がいじめにあうメカニズムがよく分かった。私は、人間関係調整力に欠ける。それを大いに恥じた。

 

今回のコロナ事変でも、もちろん、動かないわけにはいかない。授業時数うんぬん、感染防止うんぬん、という話も大切だろうけれど、でも、今年の対応をちゃんとできた学校と、誤った学校とでは、今後の状況が大きく異なるだろう。ここ数カ月「サボった」教員と、「学べなかった」子供集団が、今後どうなるのか。恐ろしい。今年はこのまま何となく進む可能性が高いからこそ、恐ろしい。まあ、エイリアンの私は、真っ先に殺されるんだろう。

 

この状況を「チャンス」と捉えて動いている人を見ていると、私の最初の挫折を思い出す。

「ピンチはチャンス」

私も昔はそんなことを考えたけれど、今は、この言葉が大嫌いだ。私のチャンスの裏に、東日本大震災で多くの方々が亡くなったり、家や故郷を失ったりした人がいたのだ。コロナも同じ。誰かのチャンスのために、誰かが亡くなったわけじゃない。誰かの悲しさを踏み台にして自分のチャンスを掴もうとするような態度は、足元を掬われるのだろう。

 

なんてことをモヤモヤと考えているから、私はずっと心が重いのだ。