『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

また負けました

Twitterで石川さんからこんなコメントをいただきました。

これは、ちょっと前に石川さんと私とで会話したことの続きだと、私は受け取りました。私のとある意見に対する“反論”です。

 

批判や反論というと、どうしても語調が荒くなってしまいがち。でも、こういう知的な指摘の仕方もあるのですよね。これを受けて、私が返したのがこちらです。

完全に論破されました、という気持ちで書きました。

 

また、石川さんにやられてしまいました。

完敗です。

 

 

 

先人の教えは正しい

職員室で起きることは、教室でも起きる。

教室で起きることは、職員室でも起きる。

先人の教えは正しいなあ。

 

ここ数年、いわゆる「スクール・カースト」について考えてきた。なぜ、教室にスクール・カーストができてしまうのか。その答えは簡単で、職員室にスクール・カーストがあるからなのだ。それが普通の状態だと、ほとんどの教員が思っているから、みんな気付かない。

 

スクール・カーストは、「下を作る仕組み」であり、「蹴落とす仕組み」なのだ。だから、スクール・カーストのある教室も学校も、どんどん崩れていく。意識的に作る人も見たし、無意識で作る人も見た。意識的に作る人は、私のことが嫌いだ。私は意図的に壊すから。はっきりと対立する。無意識で作る人は、私のことを恐れる。私が理解不能なエイリアンに見えるんだな。

私は子供の頃から、カーストに属せないタイプだった。カーストの最上位に立ちつつ、みんなに優しいタケちゃんやオオノくんたちが羨ましかったなー。みんな元気かなー。コロナがおさまったら、また飲もうね。

でも、エイリアンな私だから、今は教室内のカーストを壊すことができている。毎年、頑張ってカーストの上位に立っていた子に「なんて酷いことするんだ、この先生は!」って顔されるけどね。長い目で見たら、絶対にカーストなんて壊しといた方がいいから、躊躇しないけど。

 

でも、大人相手は怖い。

何度か痛い目を見た。大人になっても怖いものは怖い。

 

多様性を生かせない学校

「授業づくりネットワーク」誌の最新号を読んだ。

今号も考えさせられる記事が満載だった。武田緑さんのお話、じっくり聞いてみたいな。

さてさて。お正月にこの本を読んだり、SNSで感じたりしたこと、そこから考えたことを整理しておきたい。

 

「多様性が大切だ」と言って、異を唱える人は少ないだろう。でも、本当にみんな、多様性を大切にしたいと思っているのだろうか。本来、学校の「教えやすさ」に軸足を置くと、多様であるよりも一様な方が教えやすい。一つの指示で全員が同じ行動をして、一つの発問で全員が同じ回答をして、一つの説明で全員が同じように理解してくれたら、教員は楽だ。本音では、多様より一様が良いと思っている教員が多いんじゃなかろうか。

でも、実際はそんなはずがない。十人十色なのが当たり前だ。同じ行動をしたり、同じ回答をしたり、同じように理解したりするはずがない。同じだったら不気味だ。

ということは、「多様性が大切」というのもちょっと違うのかもしれない。大切とか大切じゃないとかいう話ではなく、「もともと多様」なのだ。「多様性を大切にしよう」というより「多様である前提に立とう」ということなんだと思う。「多様性を大切に」「多様性の尊重」という言葉の裏には、「一様な方が楽だけれど」という教員の本音が透けてしまっているようで、ちょっと不安になる。

 

で、だ。

教室で教員が

「このクラスでは、『みんな違ってみんないい』という考えを大切にしたいと思います。一人一人の考えの違いを大切にしましょう」

と話したとする。もし、それに対して

「先生、私は嫌です。私の考えだけを大切にしてください」

という子がいたら、どうすればいいのだろう。ここまではっきり言わなくても、例えば、体育でサッカーをやる時に一人だけ「僕は野球じゃなきゃ嫌だ!」と強く主張したらどうすればいいのだろう。修学旅行で「私は○○さんや○○さんと同じ班じゃなきゃ嫌だ。同じ班じゃなきゃ修学旅行に行かない!」と強く主張したらどうすればいいのだろう。すぐに教員が

「良いですよ。では、野球にしましょう」

「同じ班にしてあげます」

と認めたら、制御不能になる場合が多いだろう。でも、

「それはあなたの我が儘だよ。自由と我が儘は違うんだよ」

と言った時に

「先生は、一人一人の考えの違いを大切にするって言ったじゃないですか。私の考えを大切にしてくれないんですか」

と譲らなかったら、どうすればいいのだろう。実は、これと似たようなケースを、私は何度か目にしている。

 

多様性を大切に、一人一人を大切に、と言われるので、こういうケースでは、先生がじっくりと話を聞く場合が多い。

「どうして野球がいいの?うん、うん。なるほど、サッカーで嫌な思いをしたことがあるんだね。じゃあさ、こういうのはどうかな。…。」

「どうして他の人じゃ嫌なの?うん、うん。なるほど、意地悪をされたことがあるんだね。だったら、こうしたらいいんじゃない。あのね、…。」

その子の意見をある程度取り入れた妥協案を提案し、他の子に説明し、認めてもらう。その子はニコニコ。一件落着。

短期的にはこういった対応で問題ないように思えるかもしれないけれど、私はこういう行為は危険だと思うし、他の人にも勧めない。勧めないけど、みんなやるんだけどね。まあ、私も短期的な解決策として全くやらないとも言えないけどさ。

こういう対処法が危険なのは、子供たちは「ごねると、先生が困る。困ると特別扱いしてくれる」と見抜いて、どんどん困らせるようにしてくるからだ。初めにやるのはいわばイノベーターな子。で、それが効果的だと分かると、アーリーアダプターが真似を始める。アーリーアダプターの中にいるクラスのインフルエンサー的な子がこういう行動をやり始めると、集団はコントロールできなくなる。

 

かといって、教員が

「そんな我が儘を言ったら、体育はできない!」

「自分のことだけ考えていたら、修学旅行にならない!」

と跳ね除けたとする。これは一か八か。子供が「あ、この先生には通用しないな」と諦めれば終了。でも、「いや、もっと試してみよう!」とチャレンジしてくる場合も少なくない。なぜなら、幼稚園や下の学年で、「ごねると、先生が困る。困ると特別扱いしてくれる」効果を学習済みだから。教員とイノベーターの我慢比べ。多少のリスクがあっても新しいことに挑戦するのがイノベーターだからね。こうなると管理職が出てきて、特別扱いしちゃうケースもあるし、いつまでも跳ね除け続けた結果、保護者からクレームが入る場合もある。

「ウチの子が先生から『修学旅行に連れて行かない』と言われたそうですが、どういうことなですか?」

「そうは言っていません。『仲良しの友達と同じ班じゃなきゃ嫌だ』と言っており、我が儘な行動は、修学旅行という団体行動において許されない、という指導をしただけです」

「だったら、同じ班にしてください。ウチの子は、他の人に意地悪をされそうだから先生に頼んだと言っています」

なんて、実際にあり得そうな会話だ。親が悪い、と言うのは簡単だけれど、でも、そんなこと言っても誰も救われない。ちなみに、私は親が悪いとも思わないけれど、それはまた別の時にでも。

 

多様性を大切にする。こんな言葉に、少なくない先生、特に若い先生が苦しめられているのではないかしら。ベテランは、多様性なんて無視している人も多いからね。

苦しまなくていい。大切にするから苦しくなるのだ。多様なのは当然で、多様なのが当たり前と考えてみて欲しい。どう対処すればいいか、その答えは当たり前だけれど多様なのである。know-howを示しようがない。だって、正解はない。正解は多様なんだもの。

多様な対応を行うにはどうすればいいか。複数の教員で対応することで、対応が2倍、3倍多様になるとも言えなくはない。複数対応が効果的になるためには、その結果、その子が「得」をしないことが重要だ。でも、多くの場合、多くの教員は「良い先生」と見られたくて、その子に大きな利益を与えてしまい、状況が悪化するケースが多いのだけれど。

それよりも、クラスの子供たちに任せる方が、フラットでより多様な対応ができる。子供たちはどんな対応をするか。前述の例であれば、じっくり事情を聞いてくれる子もいれば、冷たく突き放す子もいれば、冗談で和ませようとする子もいれば、我が儘を言う人が得をするのを許さない!と目を光らせる子もいれば、静観する子もいるだろう。そのどの対応が有効かは、誰にも分からないのだ。多様な子が多様に関わり合う。時々、揉めながら、それでもそれぞれのプラスに寄与し合う。そんなイメージ。多様なのが当たり前だと捉え、さらに当たり前のことを活用できるようになれば、そんなクラスに近付いていく。そして、多様じゃないと困るよ!となる。でも、安心してください、多様ですよ。「授業づくりネットワーク」が「多様性を“受けとめる”」なのは、そういうことなのかもな。

 

けれど、こういう対応って難しい。集団を動かさなくちゃいけないから。集団を動かすには、それなりの説得力のある言葉が必要だ。1回や2回は動いてくれても、納得してもらえなかったら継続しない。集団の大多数が

「先生に任せないで、自分たちで多様に関わろう」

と思ってくれるだけの材料を示し続けるのは容易ではない。私も子供集団が動きたくなるような話ができるように、世の中の未来について学び、人間の幸せについて考え、それを小学生に伝えるにはどうすれば良いか、日々頭を捻っている。

そんな大変なことをして集団を動かすより、自分でやってしまった方が短期的には楽だ。そこで、前述のように、先生が対応するケースがほぼ100%。場合によっては、管理職も含めて、複数で「特別扱い」だ。その結果、「ごねると、先生が困る。困ると特別扱いしてくれる」と学習している子の話を山ほど聞く。日本全国から、驚くほど似通ったケースの話を聞く。きっと日本全国で、子供たちに大人気で「僕も、私も構ってよ!」とせがまれるものの、子供たちからは信頼されず集団をまとめられない先生が増えているし、これからも増え続けていくだろう。このTweetがプチバズったのが、そう言える根拠の一つ。

多様性、多様性言うのに、多様性を生かせない残念な学校。まあ、そうなる世の中の流れだ。