『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

知らない方が幸せなのかもしれない

私は『学び合い』による授業に取り組んでいる。『学び合い』とは、「一人も見捨てなくない」という教員の願いを実現するために、人間の衝動を利用して集団をゆるやかに動かすための理論だ(と、私は考えている)。

『学び合い』の理論による授業で典型的な形は、

  1. 授業者が課題を出し、全員達成を求める。
  2. ネームプレートや名簿等を用いて、各々の達成状況を可視化する。
  3. 授業者は説明をせず、「はい、どうぞ」の声を合図に、児童・生徒は自由に立ち歩いて相談する。

という、「はい、どうぞの授業」と呼ばれるものだろう。でも、この形で授業をやったからと言って、すぐに「一人も見捨てない」授業が実現するわけではない。「一人も見捨てたくない」と願い続けてきたからこそ、それが簡単ではないことを、身に染みて感じている。

でも、

「一人も見捨てないなんて当たり前じゃないか」

「見捨てているなんて思っている教師はいないよ」

と簡単に言う人を度々見る。逆に

「一人も見捨てないなんて、暑苦しい教師は嫌だ」

「そんなこと言ったら、見捨てられている子が気付いてしまうじゃないか」

というようなことを言われることもある。

 

昔は、こういう時に腹を立てていた。そういう言葉の後ろに、苦しむ子供たちの姿が見えるような気がしたからだ。

でも、ある時、その怒りは、私が「一人見捨てない授業」を実現できていないことに対する自己嫌悪と結び付いていることに気付いた。自分が出来ていないから、イライラしていたんだなあ。

 

そんな未熟な私だが、過去に何度か「一人も見捨てない授業」に近付いたな、と感じた瞬間がある。鳥肌が立ったり、涙が出たり、心の底から子供たちに感謝したり。ただ、それは、本当の意味で実現できたのかどうか分からない。答えは、数十年後に出るからだ。現時点では「近付いた」としか言えないのだ。

だから、この仕事をしていて心の底から満足できることはないだろう。今までもだが、これからもずっと、何かが足りないと乾きながら仕事をすることになるんだろうな。

まあ、私はそれでいいんだけど、でも、そんな苦しみは知らない方が幸せなのかもしれないと思う時もある。だから、「一人も見捨てないなんて当たり前」と言う人に対して、怒ることはやめたのだ。

と言いつつ、割り切れない気持ちがあるのも事実。器の小さい私である。

2010年と比べれば

『学び合い』に対する批判を読む度に、西川先生のこのお話を思い出す。

2010-02-01 - 西川純のメモ

私は、2010年に『学び合い』による授業を始めた。それから数年間は、全く知らない人から攻撃されることも少なくなかった。私のブログに「酷いコメント」を書かれることも多かった。

その頃と比べると、今は本当にやりやすくなった。

「本は何冊か読んだが、まあ、有効な場面とそうじゃない場面があるよね」
「考え方は理解できるけど、この高橋って奴は気に入らないな」
「教科や単元によっては使えるんじゃないの」
というような、第3段階の反応が増えたよなあ。ありがたいことだ。もちろん、第2段階の反応もまだまだあるけれど。

第3段階の反応が増えるということは、中にはちゃんと理論を知った上での鋭い突っ込みも増えるということなのだろう。セミナーの場では、思わず唸る質問をされることも度々ある。

そして、現実の学校では、第4段階の反応が増えていることを、私は知っている。

「私も子供達が学び合う授業をしたいけれど、本当にできるかなあ。心配だなあ」

「私も『学び合い』をやった方がいいのかなあ。自信ないなあ」

そう思っている教員が大勢いるのだ。大丈夫、できますよ!とは、私は言わない。『学び合い』に真剣に取り組んできたつもりだからこそ、その難しさも分かっているつもりだから。「誰にでもできる教育実践」なんてあるわけがない。

けれど、そういう教員の不安を消す方法を私は知っている。それは、世の中にもうちょっと『学び合い』が広まることだ。

自分の一斉授業に自信を持っている教員は少ないだろう。自信がないのに一斉授業をやれているのは、「多くの人がやっているから」だ。

多くの人がやっている、というのは、自信のない人の背中を押すことになる。そういう人が必ずしも「よい『学び合い』の授業」ができるとは思っていない。でも、力量の高い同僚がいれば、合同『学び合い』によって助けることができる。どんなに力量の高い教員でも、違う学年・教科で複数のクラスを同時に一斉授業することは難しいだろう。むしろ、他の教員が入ることで、担任への信頼が下がることも少なくない。でも、『学び合い』なら可能なのだ。(今のコロナの状況だと、それも難しいのだけれど。)

別に、世の中の全ての教員が『学び合い』で授業をやって欲しいとは思っていない。そんな状況は異常だ。でも、もう少し増えて欲しいと願っている。2010年と比べれば、確実に増えているだろうけれど、でも、まだ足りないんだよなあ。

今、やらないと。

公務員を退職し、私立校へと転職して間もなく4か月になる。新しい勤務校は、小学校も教科担任制であり、小・ 中の連携として中学校の国語も担当している。

福島県と宮城県、公立と私立、小学校と中学校。 多くの教員よりは、ちょっとだけ多様な経験ができていると思う。

その中で、私が大切にしてきたのが、「相違点」よりも「共通点」である。

 

多くの人からは、相違点についてばかり言われる。 私が外に出してきた実践は公立校勤務時のものなのに、「 私立だからそう言える」なんて言われたこともある。過去には「 あなたの授業は、中学校ではできない」と言われたこともある。

私立と公立では「違う」。

小学校と中学校では「違う」。

あなたの勤務地と私の勤務地では「違う」。

そりゃそうだろう。だけど、違うのは当たり前で、 そこからもう少し、物事を深く考えてみると、 見えてくるものはないだろうか。

例えば、学級担任制と教科担任制で同じ「形式」 ではできないのは認めるけれど、同じ「スタンス」 で授業をすることは可能だと、この三か月でよく分かった。 同じスタンスとは、「集団は信頼に足るが、愚かでもある」 ということだ。また、 教科担任として自分が担任ではないクラスであってもプラスの作用をもたらすことはできる、 という思いは小学校で理科専科をやった時と何ら変わらない。 これは、集団を動かす理論に関わることだ。

 

自分は何をしたのか、何ができなかったのか、何がプラスになり、 何がマイナスになっているのか。 自分の実践を丁寧にめくっていくと、「ああ、ここは一緒なんだな」 というものが見えてくる。私は自分の実践を以前よりもシンプルにとらえることができるようになっ た。

 

同時に、ちょっと難しい問題も見えてきた。

県が違っても、公立でも私立でも、小学校でも中学校でも、 共通した「問題点」が見えてきたのだ。

25年前、私が学生の頃には「発達障害」 は今ほど注目されていなかったと記憶している。それが「 いわゆる学級崩壊」とセットのような形で、 学校現場でも段々と注目されるようになり、10年くらい前から「 何でもかんでも発達障害のせいにするな」状態になってきた。 学級の半数近くを審議会に出す、 なんていうとんでもない教員を何人も知っている。 それは勉強不足だともいえるけれど、その根っこには、 非常に都合のよい言い訳が見つかった( それは全くの的外れではない、という意味で都合がよいのだ。) という安心感があるのだろう。

その後、その反省なのか反動なのか分からないが、「 ユニバーサルデザイン」や「合理的配慮」 という動きがでてきた。 私はそれを非常に好ましいと思っていたけれど、悲しいことに、 これがマイナスに作用してしまっているケースも散見する。

今は「愛着障害」が注目されるようになってきた。きっとこれも、 しばらくたつと、 発達障害の時と同じような流れになるんだろうと思っている。 つまり、愛着障害が、 今起きている教室の問題とセットのような形で段々と注目されるよ うになり、「何でもかんでも愛着障害のせいにするな」 状態が多発する。現時点で、極少数のアンテナの高い教員はその問題点に気付いているし、 せっかちな私のような人間は、既にその対応策を練っている。

ちなみに、従来の学級崩壊については、 そこそこ高いレベルで対応をしてきたと自負している。 今、あちこちの学級で起きている問題について、「 今までとの違い」をはっきりと認識したのが4年前。 それから必死にしわの足りない脳みそで考え続けてきたし、 自分の実践を組み直してきた。

 

ということで、この夏は、 それをまとめようとうと必死にもがいている。

今は世のほとんどの人が気付いていないから「時期尚早」 なのも重々承知だ。でも、 多くの教員がこの問題に気付いてからでは、手遅れになる。その前にやるしかない。