『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

なぜ「木竜うるし」なのか なぜ「白神山地」なのか

教師は「教材研究」という言葉を使います。
が、本当の意味での「教材研究」が出来ている教師など、ほとんど居ません。
少なくとも、わたしは出来ていません。挑戦したことは何度もありますが。

教材研究とは、新たな教材を開発し、その効果を明らかにすることだと(わたしは)思っています。

「この教材をどのように教えるか」や「あの人がやっている授業を、自分も試してみよう」というのは、教材研究とまでは言えません。「指導研究」「授業研究」と言ったところでしょう。
指導研究・授業研究が悪い、と言いたいわけではありません。一般的には「どんな発問が良いか」「めあてとまとめをどうするか」ということがこれに当たるでしょう。『学び合い』をどう成立させるか、学級作りをどう進めるかというのもそうだと思います。これらは、非常に大切だし、高度なことだと思います。

むしろ、ほとんどの教師にとっては、教材研究を行うことは難しいでしょう。「検定教科書」「教育課程」という縛りがありますから、それを乗り越えられる強者でないと、新たな教材を開発し、その効果を明らかにすることは無理だからです。もちろん、そういう教師もいます。正直に申せば、わたしも成りたいと思っています。
でも、簡単なことではありませんし、若い教師が勢いだけでやっても出来ないでしょう。教師がやけどするだけなら勝手ですが、最悪なのは、子ども達が実験台で終わってしまうことです。

けれど、指導研究・授業研究だけでは不十分だとも思います。『学び合い』でも、ステップ2に入ってきたら、教材と向き合うことが重要になってくると思います。

わたしが若い頃から(今も若いつもりですが、今よりも、という意味です)ずっとやっているのは「教材を分析し理解すること」です。
「教材理解」とでも名付けておきましょう。
例えば、わたしの学級はこれから、「木竜うるし」という題材で学習します。

学習指導要領の国語科の3・4年生の目標は

目的に応じ,内容の中心をとらえたり段落相互の関係を考えたりしながら読む能力を身に付けさせるとともに,幅広く読書しようとする態度を育てる。

というものです。また、3・4年生の指導事項には

(1) 読むことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 内容の中心や場面の様子がよく分かるように音読すること。
イ 目的に応じて,中心となる語や文をとらえて段落相互の関係や事実と意見との関係を考え,文章を読むこと。
ウ 場面の移り変わりに注意しながら,登場人物の性格や気持ちの変化,情景などについて,叙述を基に想像して読むこと。
エ 目的や必要に応じて,文章の要点や細かい点に注意しながら読み,文章などを引用したり要約したりすること。
オ 文章を読んで考えたことを発表し合い,一人一人の感じ方について違いのあることに気付くこと。
カ 目的に応じて,いろいろな本や文章を選んで読むこと。

と書かれています。これらを指導し、上記の目標を達成するための教材なのです。
では、「木竜うるし」は、これらのうち、どれを指導するために設定された教材なのでしょうか。
教科書に書かれている学習活動は、どんな姿を実現するために考えられているのでしょうか。

簡単に言えば「なぜ、木竜うるしって教材が教科書の載っているのかな」ってことです。

そういった教材理解ができれば、課題設定なんて悩まなくてもよくなるはずです。
「こういうことができるようになってね」と言えば済むのです。
ちなみにわたしは、「各場面の登場人物の行動、気持ち、性格が分かる。」と「それが伝わるように工夫しながら、朗読劇ができる。」という課題にする予定です。この課題で単元を預けます。へなちょこです。かっこいい文言ではありません。でも、いいのです。
途中で「行動と気持ちの違いは分かるよね。で、気持ちと性格ってどう違うの?」「この人の気持ちは、どこで変わったの?」「なんで分かるの?証拠は?どこに書いてあるの?」「それを、どんな読み方で伝えるの?」と集団を「つっつく」つもりです。言わないかもしれないけれど。
多分、心情曲線をかいたり、表にまとめたりしながら、読んでいくでしょう。
朗読劇をするときは、お互いに見合ったり、自分の読む声を録音したり動画で撮影して振り返ったりしながら読んでいくでしょう。
けれど、そういう「方法」は何でもいいのです。
大切なのは、何を達成すべきか、です。それを明らかにするために行うのが、教材理解です。

では、社会科、白神山地の学習。
なぜ「白神山地」なのでしょうね。
どんなことを指導するために選ばれた教材なのでしょうね。
どんなことができれば、それを「指導した」と言えるのでしょうね。

20代のうちから、そういったことを理解して指導できている人って、それほど多くないでしょう。
若いウチは、どうしても「見た目の派手さ」に囚われてしまいます。「こっちの活動の方が、児童が生き生きと学びそうだ」とか「こういう指導方法を試してみたい」という思いで授業をすることが多いでしょう。つまりは指導「方法」研究です。(研究と言えるレベルかどうかは別の問題としてありますけれどね)
しかし、方法をどんなに追い求めても、教えるべき中身が無ければ、意味がありません。どの子も生き生きとしていることは、第一段階=ステップ1に過ぎません。ステップ2以降は、生き生きと「何を」学んでいるかが大切なのです。(それを追い求めていけば、わたしもステップ3にたどり着けると考えています。)
わたしも何度もそういう失敗を繰り返しました。失敗ができるのは「若さ」の特権でしょう。けれど、若さが通用しなくなる時が絶対に来ます。その前に、身に付けておかなくてはいけないことって、沢山あるのです。

という話を、日曜日にしてあげたかったのですが、出来なかったので、ここに書いておきました。
遠くからいらして下さった若い先生方への、わたしなりの御礼です。