『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

『学び合い』を成立させるには?

ちょっと辛口ですが、しばらく「シリーズ」で書きたいと思っていることがあります。
今日は、『学び合い』を成立させるには、何が必要なのかを考えてみます。

『学び合い』グループの皆さんは言います。
「『学び合い』は考え方です」と。
そして、それは
「3つの観です」と。

「3つの観」って何でしょう。
「『学び合い』は、子どもは有能であるという子ども観と、学校とは多様な人と折り合いをつけて、自らの…」
いえいえ、それは皆さん、知ってますよね?
で、それが「分かっている」のでしょうか。
大切なのは「3つの観」を「知っているかどうか」ではありません。
「分かっているかどうか」です。

例えば算数で言うと…。
「xの値が2倍、3倍…になると、yの値も2倍、3倍…になる時、yはxに比例している」という「言葉を知っている」だけでは、比例が「分かっている」とは言えません。言葉は知っていても、数量の感覚が身に付いていない子もいます。「1mで3kgの鉄棒は、2mだと6kgだ。」そういう「感覚」のない子はたくさんいるのです。ですので、そういう子は、「2本で6gのくぎがあります。このくぎ1本では何gですか」と問われても分かりません。
西川先生は「言葉を知らないために学習が理解できない子が非常に多い」というようなことをおっしゃっていました。わたしもその通りだと思います。でも、最後まで分からないタイプの子は、こういう「言葉が分からない」のではなくて、「感覚が分からない」のかなあと思っています。


『学び合い』だってそうだと思います。

  • 「子どもたちは有能である」
  • 「学校は、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場である」
  • 「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」

という「言葉を知っている」だけでは、『学び合い』の学校観を「分かっている」とは言えません。言葉は知っていても、自分のクラスにおいて、どんな形で現れているのを説明できる必要があるように感じます。
「有能」なはずの集団が、今日もあなたをイライラさせるのはなぜですか?有能な集団がなぜ今日も「あの子」を泣かせたのですか?
「折り合いをつけて」と言いながら、「それぞれが」「主体的に(≒好き勝手に)」やっているだけではありませんか?あなたのクラスで「折り合いをつけている姿」って具体的にどういうことがありますか?それは『学び合い』でなければ起きえないものですか?起きえない頻度ですか?
あなたのクラスの子ども達における「自らの課題」って何ですか?で、それを解決できているのですか?
その自らの「課題」と、教師が設定する「目標」って同じものですか?違うとすると、どう関連しているのですか?それとも無関係ですか?
「評価」って通知表の「評定」とは別ですよね?いつやってますか?どうやってやっていますか?
皆さんの学級の「環境」は、『学び合い』ではない学級とどう違うんですか?


そういうことが「分かっている」必要があるのだと思います。
分かっていないと、『学び合い』は成立しないでしょう。
例外があるとすればば、直ぐ近くに「分かっている人」が存在している場合でしょうか。そんな人が隣のクラスにでもいれば、大丈夫でしょうけれど。
少なくともわたしは、こういうことが分かってきたなあという時期から、どんなクラスでも『学び合い』でいけるなあと思えるようになりました。



さて、次は、『学び合い』を持続させるには?  を考えてみたいと思いまっす。