『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

西川・石川対談に思う

フォーラム1日目に行われた西川純先生と石川晋先生の対談。
話を聞きながら、「俺も混ぜて!」と登壇したいのをぐっとこらえていました。
石川先生が聞き手、西川先生が話し手という形でしたが、『学び合い』の少し外側に居る、とおっしゃる石川先生ならではの視点から、『学び合い』と西川先生について掘り下げられていきました。
わたしが最も心に残ったのは「より上位の概念」という言葉でした。終了後、石川先生から頂いたFBのメッセージにもその言葉がありましたが、あの対談でもっとも重要な言葉だったと個人的には感じています。
『学び合い』は3つの観から成り立っています。そして、それよりも上位の概念として「一人も見捨てない」という言葉が使われています。


「一人も見捨てない教育を本気で目指せば、『学び合い』しかないのではないか。少なくとも現時点では3つの観にたどり着くしかないように思われる。我々は完璧ではないかもしれない。『学び合い』を理解できない人も居る。でも、見捨てられている子を多くの教師が無自覚に切り捨てている現在の状況よりも、理解できる人間は考え方として『学び合い』を行い、理解できない人間にはテクニックとして『学び合い』をやってもらう方が、まだ“まし”なんじゃないか。どんな先生とだって、一人も見捨てない、という想いは共有できるのだから。」


わたしは、全校『学び合い』とはそういうものだと考えています。
でも、石川先生の「突っ込み」を聞きながら、
「でも、その『一人も見捨てない』という想いは、『学び合い』の中で、本当に共有されているのだろうか?そこは共有できているのかなあ」
という疑念が涌いてきました。わたしは共有できているつもりですけれど。
ちなみに、わたしが考える「一人も見捨てない」とは「一人残らず、立派な大人になる!」ということです。大人になることが教育の目的なのは、常識ですよね。
立派な大人とは、自分はもちろん、周囲の人間も幸せにできる存在です。周囲とは、少なくとも家族。本当は「世の中」。
一人残らず、自分も、家族も幸せに。それにとどまらず、世の中の少しでも多くの人を幸せにしよう!と考えられる人間に育てたい。
自分が幸せじゃなくちゃ、周囲なんて幸せにできないし。
自分が幸せになるには、世の中全体のことを考えなくちゃいけないし。
だから子ども達には、
「大人とは、目の前のことだけじゃなくて、見えないところのことも考える。
 大人とは、今のことだけじゃくて、過去や未来のことも考える。
 大人とは、自分のことだけじゃなくて、目の前の人だけじゃなくて、遠く離れた人のことも考える。
 それが大人。」
と話しています。


全員が同じ「大人像」を共有している必要はありません。むしろ、多様な方が面白い。わたしの考えもこれから変化していくでしょう。
でも、本当に「一人も見捨てない」という想いは共有できているのだろうか?
そして、「一人も見捨てない」という言葉だけがフワフワと漂って、『学び合い』から抜けていった人々や『学び合い』を否定する人々を「見捨てる人」と見なしたり、そういった人々自身が「俺は見捨てたのだ」と傷ついたりすることに繋がっていないか。
そんなことを考えてしまったのでした。
石川晋さんがそこを意図して対談をなさったのかどうかは分かりませんけれど。



『学び合い』は考え方です。3つの観から成り立っています。
それを具体化する(=授業として行う)ことも大切ですが、その上位概念である(とわたしが考える)「一人も見捨てない」についても、それぞれが具体化し言語化することも大切なのではないでしょうか。それはつまり「どういう教育をしたいの?どういう子どもを育てたいの?」ということに繋がります。


そして。
そこを考えなければ、いつまで経っても「助け合い型」から抜け出せないかもしれない、とも思うのです。
この辺りのことは、もう少し整理してから発信します。



なにはともあれ。
学びの多い対談でした。
これで、わたしの授業は更に進化できます。
西川先生、石川先生、本当にありがとうございました。