『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

潰れない学校

こんな妄想をしました。
あるレストランの評判がイマイチだとします。
そのレストランでは、お客さんの半数は、食事を残します。中には、
「こんな不味い飯が食えるか!」
なんて言う人もいます。そして、残さず食べている客だって、美味しいと思っている人ばかりではありません。
「だって、食べ物を粗末にしたら悪いから」
「せっかく作ってくれたのに、残したら失礼だから」
「残したら、親に怒られちゃう」
「俺は、この値段なんだから、そんなに美味しい物が出てくるなんて期待していないから平気だよ」
といった感じ。
それに対して、シェフはこう言います。
「ここは客層が悪い」
「前のシェフが広めた悪い評判が、まだ尾を引いている」
「味覚障害の客が多くて、困る。受診を勧めたい」
そして、批判されるとこう言うのです。
「俺は昔からこの味でやってきた。これで文句を言われたことはない」


こんなシェフがいたんじゃ、そのレストランは潰れます。


では、学校だったらどうでしょう。
担任の授業に対して
「こんなつまらない授業受けていられるか!」
という子供がいます。そして、我慢して受けている子供の多くは、
「だって、先生の言うことは聞かなくちゃいけないから」
「きちんと話を聞かないと、先生に失礼だから」
「勉強しないと親に怒られちゃう」
「俺は、最初から、学校の授業が面白ければいいな、なんて期待していないから平気だよ」
といった感じ。
それに対して、もしも、教師がこう言ったら・・・。
「ここは地域性が悪い」
「前の担任の指導が悪くて、まだ尾を引いている」
発達障害の子供が多くて困る。受診を勧めたい」
そして、批判されるとこう言うのです。
「俺は昔からこの方法でやってきた。これで文句を言われたことはない」


残念ながら、それでも学校は潰れませんし、不幸なことに、子供達は我慢して学校に来なければなりません。それが、嫌ならもう来店しなければ良いレストランとの違いです。(でも、実を言うとわたしは、学校以外の選択肢が世の中にあればいいのに、と思っていますけれど。それはまた、別の話ですね。)


上記のような教員が実在するとは申しませんし、もしも、そういう先生が居ても、わたしは正面きって批判をしようとは思いません。
そう言いたくなる気持ちは、理解できなくはありませんから。わたしだって、『学び合い』に出会えていなかったら、上手くいかない原因を自分以外の何かに求めていたでしょう。
「他者は変えられないが、自分だけは変えられる」という考え方は真だと思いますし、大切なことです。けれども、全てを自分一人で背負おうとしたり、自分を変えすぎて見失ったりしてしまっては、疲弊していくだけですもんね。
「自分のせい」だと言えないのは、無責任だからではなく、責任感が強過ぎてもう背負えないほどの荷物を抱えているせいかもしれないと考えると、人を責める気持ちは消えていきます。
「俺だって、人のこと言えないよな」
と言うのが正直なところです。


レストランで言えば、10割を満足させられる料理はないのです。名シェフなら9割や8割を満足させられるのかもしれません。でも、
「俺には、ここの店は合わないな」
と言う人は絶対にいます。絶対に。だから、
「満足度が100%じゃない!」
という責めは、ブーメランのように自分に返ってくることになるのです。


だから『学び合い』なのです。
子供達を「お客さん」として考えていたら、絶対に「美味しいと思えない子」が出てしまいます。
全員が美味しいと思ってもらうためには、子供達自身がシェフとなって、料理を作るしかないと思うのです。
つまり、子供達自身が主体となって、授業を作るということ。


でも、こういう考え方に対する批判は絶対にあると思います。
典型的かなと思うのは、
「子供達は自分が作っているから満足かもしれないけれど、でも、それではレベルが低いものしかできないだろう。学校で、子供の料理のようなレベルが低い物しか提供できないのでは、学校の意味がない」
というような批判です。
わたしは、それに対する返答となるような教師になりたいなあと思っています。
それが出来なければ、潰れないはずの学校が潰れてしまう日が、間もなくやってくると思うのです。じゃあ、「返答」とはどんなものか。長くなったので、次回に書きたいと思います。