『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

任せる

土曜日は授業参観がありました。
今回は小学校生活最後の授業参観ということもあり、子供達に45分間任せました。例えば、授業参観では児童の写真(スライドショー)を見せる先生も多いかと思いますが、その写真の選定からMovieの作成、PCの操作など一切合切を任せました。というか、スライドショーを作るという企画自体も子供達が決めました。他の内容も、子供達が話し合って決めました。


わたしは保護者の皆さんと冗談を言い合いながら一緒に参観しながら、
「やっと俺も、少しは任せることができる教師になってきたなあ」
と感じていました。


若い頃は、子供達に任せることが出来ませんでした。自分が主役となり、自分が全てを握っていたいと思っていました。
それは、子供の力を信用できていないということであり、同時に、自分の限界が分かっていないということでした。自分の限界が分からないのは、目指しているものが低いからです。低いレベルなら、教師一人の力でもなんとかなります。そうなると、任せることの必要性が理解できません。
そして、目標の低さは、イコール、わたしの教師としてのレベルの低さだったのでしょう。


その後、少しずつ教師として経験を積むと、子供達の「詰まらなさそうな顔」が目につくようになってきました。そこで、自分は脚本家・演出家となり、子供達主演の「楽しそうな学級」を作ろうと考えました。
子供達が主役と思っていながら、でも、実態は教師が思い描いた通りに子供達を動かしたいのですから、本当の意味での「子供達主体」とは全く異なります。けれど、中には演技の上手い子がいて、わたしの意図通りの動きを、演技だと感じさせずに演じてくました。それを見て、わたしは満足していました。その子が本当に楽しかったのか、本当は楽しくなかったのかは、わたしには分かりません。けれど、確実に言えることは、演技の上手い主役級の子がいるということは、演技の下手な脇役がいるということです。それは、学級に不平等を生み、差別を生み、いじめを生むということです。
わたしは、当時も今も目に見えるいじめは許しません。当然です。けれど、当時のわたしの目が届かないところで、理不尽に苦しんでいた子が居たということは、今となっては容易に想像がつきます。筋道を立てて考えれば、当然のことです。
任せた振りをして、子供をコントロールしようとすれば、絶対に苦しい子を生みます。教師は(というか、全ての人間は)、長期間に渡り、多数の他者を意のままに操ることはできないのです。
余談ですが、短期間で少数の人間なら、何とかなります。普段は反抗的な子に対して「あいつは、1対1なら俺の言うことを聞くんだよ」と言って悦に入る教師がいますが、それは別にその子に信頼されているわけでも、よい指導をしたわけでもありません。そういうものなのです。


閑話休題
わたしは、幸か不幸か、『学び合い』に出会いました。
「教師は演出家だ」と考えていた時も、そこそこ良いクラスを作っていたと自負していました。今となっては反省ばかりですが、その時には、自分なりにいいクラスを作れたと思っていました。
しかし、わたしがどんなに考えて脚本を練って、どんなに知恵と技術を駆使して演出を施し、賢い子達が名演技をしてくれても解決しない「ある問題」に苦しんでいました。
もっと良い脚本を描かなくちゃ!と焦る一方、でも、自分の方法論が間違っているのかもしれないという思いが頭の片隅にありました。
そんな時に出会ったのが『学び合い』でした。『学び合い』を始めて2週間。わたしがどんなに考えても解決しなかったその問題は、解決しました。やったのは、もちろんわたしではなく、子供集団です。


当時は、なんでそうなったのかがよく分かりませんでしたが、今ではよく分かります。わたしにはその問題を解決する力はなく、集団が持っていたのです。教師一人の力より、子供集団の力の方が絶対に強大なのです。
分かってしまえば簡単なこと。
でも、それがなかなか分からない。
どうしても、子供をコントロールしようとしてしまいます。それで何度も失敗を繰り返してきました。
また、失敗続きが嫌になり、子供達に委ねてしまったこともあります。これも非常に良くないのです。任せることは良くても、委ねては絶対に駄目。これも分かってしまえば簡単なことなのに、なかなか分かりませんでした。
ちなみに、任せると委ねるの違いを一言で言うと、「課題と評価があるか、ないか」です。


コントロールしようとせず、でも、無責任に委ねることもせず、子供達に任せる。
それがやっとやっと、ちょっとずつ出来てきたかなあ。でも、ちょっとですよ。反省の方が多い。
それに、数年前の自分を、現在ではバッサリと斬って捨てているように、現在の自分を数年後には「甘かった」と斬って捨てられるようになりたいと思います。
自分の駄目さもよくよく分かっています。


卒業が近づいてきました。
卒業を前にすると、いつも思います。不十分な教師でごめんなさい。修行の足りない教師でごめんなさい。と。
卒業までのわずかな時間で、出来るだけのことはしなくっちゃね。3週間あれば、子供もわたしも、まだまだ成長できますから。