『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

宮城県で働く小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。2月に単著発売予定「流動型『学び合い』の授業作り」発売

切り取る

先日,みゆき会の3人で話(チャット)をしていて,
「我々の授業は,積分だ」
という話になりました。わたしは,微分積分がよく分からないアホなので,別の言い方をするなら
「授業は,一部分を切り取ったら,本質を見誤る」
ということであり,
「わたしは,森を見て木を知るようにしている」
という感じでしょうか。


どんなに優れた授業でも,一部分を切り取って見たら,完ぺきではない瞬間があるはずです。
研究授業後に,
「あの子が分かっていなかった」「あの子が良い考えを持っていたのに見落とした」「あそこでの教師の発問は,こうあるべきだった」
なんて話を嬉々とした表情で捲し立てる人が居ますが,わたしは,そういう人とは仲良くなれそうにありません。
どの子も分からない瞬間があるでしょう。全ての子が全ての時間に全てを理解できるはずがありません。
教師は子供達の考えを完璧に把握するのは無理でしょう。もしかしたら,その人が見つけた「あの子」よりももっと良い考えを持っている「別の子」が居たかもしれないのですし。
どんな発問にも,フィットする子としない子がいるでしょう。全員が理解不能な発問をする教師もいますが,でも,全員が理解可能な発問はありませんから,発問の良し悪しは,ほとんどの場合は程度問題と言えます。
そういうところを,細かく細かく突き詰めていくと,結局は「どんな授業もダメ」という結論以外はあり得ません。中には,自分の授業は細かく見ないで,「俺の授業だけが良い」という結論を出す人も居ますけどね。
授業の一部分を切り取る見方は,その授業が子供達にとって本当に価値があったかどうかを見ることはできないでしょう。
まさに,木を見て森を見ず状態。


だからわたしは,森を見て木を知るようにしています。
つまり,全体を見ることで,個々の状態を推し量るのです。
個々の状態は,木々がお互いに見合い,補い合う。わたしは,森全体が健全であるかどうかを見る。という感じ。
一人の教師が,森の中の木々を一本一本完璧に把握するなんて不可能。それは,分かっているはずなのに,多くの教師が,一本一本の状態を気にしてしまっているんですよね。善意なのはわかりますが,でも,「木が木を見るなんて,不可能でしょ?」と,心の中で思っているんだろうな。
だから,どうしても切り取っちゃう。ま,その気持ちも分かります。ちょっと前までわたしもそうでしたから。