『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

コントロールする

Facebookに書いたのですが、この1学期は、「コントロールしたい」という欲求がなかなか抑えられなかった1学期でした。というのは、転勤直後ということもあり、早く結果を出したいという焦りがあったのです。
焦っていると、「俺の言うとおりにやって、さっさと結果を出せ!」という思いがムクムクと湧き出て、イライラし、結果として上手くいかないのです。


反省し、何もせずに放っておこうという気持ちになりました。
そうすると今度は、集団が動かなくなります。


そうした日々の中で、「結果を出せ!」と求めることは不可欠だし、それは教師による「コントロール」であり「押し付け」であると気付きました。
と言うと、『学び合い』を実践している方々は、子供達の主体性を大切にしている方がほとんどでしょうから、「え?押し付けるの?」と疑問に感じるかもしれません。わたしも、ちょっと前まではそう思っていたので、よく分かります。
でも、結論から言うと、わたしは押し付けているんだなあと思います。そして、意識的にも、無意識的にもコントロールしています。
まあ、コントロールの定義が難しいのですが。


ちょっと長い話になりますが、大切なことなので書いておきたいと思います。


繰り返しますが、わたしは子供達をコントロールしています。
大切なのは「達」です。個々人をコントロールすることはできません。集団の中で、誰がどんな動きをするのかは、教師には見えないからです。ですから、集団全体に語りかけ、集団を動かすのです。
教師は集団を動かすことはできます。というのは、教師が心から望み、心から語りかけたことなら、一定数以上の子供達が受け取ってくれるからです。そして、その一部の子供達の動きが全体を決めます。その作用を積極的に活用するのが、わたしの考える『学び合い』です。(というかそれこそが『学び合い』なんだと、最近は考えています。)
わたしが1学期にやっていた失敗は、「個を動かそうとしてしまった」というもの。個は無理なのになあ。頭では分かっていても、なかなか難しいものです。
つまり、「子供をコントロールしない」というのは、個人をコントロールしないということなのです。


教師が集団の進むべき道を明確に示さないと、集団は迷走します。そして、子供達が疲弊していったり、「楽しんでいるんだから、まあいいや」と助け合い型『学び合い』に陥ったりするのでしょう。さらに教師の指針がぶれ続けると、いわゆる学級崩壊のような状態になったり、「先生、うちの子には『学び合い』は合わないので止めてください」となったりするかもしれません。
教師である以上、学級を経営しなくてはいけないのです。経営者たるもの、明確な経営方針を示し、それに則って実際の学級経営を行うのは当然でしょう。
今までのわたしも、押し付けているつもりがなくても、絶対に押し付けていました。コントロールしているつもりがなくても、コントロールしていました。
その対象が「個」ではなく、「集団」であることが大切なのです。



この時、何を押し付けるかというのも重要です。わたしの場合、簡単に言うと、「法的に根拠のあることしか押し付けません」。
みゆき会の実践の特徴は、教科書を大切にすることだと思います。わたし自身は、教科書を大切にするのは、学習指導要領があり、検定教科書があるからです。(坂内さんと古田さんが同じことを考えているかは分かりませんが。)公立学校で働いている以上、その縛りからは逃れられません。だったら、それを逆手に取ればいいのです。学習指導要領の内容を「勉強しろ!」と押し付けるのは、法的な裏付けがあります。指導要領や教科書に根拠があれば、揺らぐことなく求められるのです。でも、教師が一人で考えたことは、絶対にぶれます。


けれど、世の中の「善意の教師」には、そうじゃない方が大勢います。指導要領よりも、自分の過去の実践や本で読んだことを優先させる教師が多いのです。そうする根拠は、個人的な経験や、生兵法レベルの伝聞がほとんど。そうすると、絶対にぶれます。だって「教師」が全てなんですから。
過去にしがみついている教師は、子供達との距離が開きすぎて、コントロール不可能になるでしょう。
逆に、勉強熱心な先生は新しいものを学べば学ぶほど、色んなことを持ち出して、子供達を振り回し続けてしまうでしょう。そうなると子供達は疲れ、意欲が減衰します。となると、「子供達の意欲を高める」ために、色々なテクニックを使うことになります。教材にこだわったり、可視化をいつまでも続けたり。さらに熱心に新たなものを学ぼうとするでしょう。善意からね。そうやって削ぎ落せず、どんどん余計なものにまみれていくでしょう。
尚,スーパーな教師は、後ろ盾がなくてもぶれません。それは,その人がオリジナルだからです。スーパーでない普通の教師は、かなり気合と本腰を入れて学ばないと、いつまでもぶれちゃうかも。


と気付いたので、穏やかに、にこやかに、でも強固に課題の提示が出来るようになりました。


少々辛口(?)ですが、極めて重要なことだと思うので書いてみました。
少なくとも、わたしが『学び合い』を継続し、それなりの結果を出せているのは、きちんと集団をコントロールしようと心がけているからでしょう。
任せるけれど、委ねない。それが最近のわたしの基本スタンスです。