『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

長期的な授業モデル その3

<その2の続きです。>
一発勝負ではなく、繰り返し学べるというのは、学び手にとって非常に楽です。
繰り返せるということは、ミスが許されるということですから。
ミスが許されない状態での学習は、失敗したくない=やりたくてもやれない に繋がります。絶対にミスをしないための唯一の方法は、やらないことなのです。


学習指導要領というのは、基本的に「繰り返せる」ように作ってあります。例えば、国語なら、1年生で習った漢字は、2年生でも3年生でも、繰り返し教科書に出てきます。物語文を読む学習だって、説明文を読む学習だって、手紙の書き方だって、スピーチの仕方だって、何度も繰り返し学習します。算数なら、1年生で足し算をやりますが、その時に繰り上がりが理解できなくても、2年生でも3年生でも、繰り上がりのことは出てきます。わたしのクラスでも、3年生の筆算の学習で「ああ、繰り上がりがやっと分かった。」と言っていた子がいましたから。過去には、掛け算の筆算を学習する中で足し算を身につけた子もいました。それで良いのです。


それが分からないと、教師は「この勉強」ができないことに非常にこだわってしまいます。
研究授業において、導入部分で10分も15分も時間をとってしまうケースを度々見ますが、それは「これが分からないと、次に行けない」という教師の思いの表れでしょう。また、『学び合い』でも、「一単位時間毎に課題を出す」という授業から抜け出せなかったり、可視化を止められなかったりするのは、「この勉強」にこだわる教師の思いの表れでしょう。


わたし自身も犯した過ちなのですが、「この勉強」にこだわると、トップランナーが走れなくなってしまいます。それなりの勢いで学習すれば、ミスはつきものです。そして、「この勉強」に教師がこだわっていると、多くの場合、課題のレベルは下がっていきます。出来ない子に合わせた課題になっていくからです。そうなると、トップランナーはますます自分の勉強ではなく、「子守」のような勉強をすることになります。自分は分かっていることを、延々と説明して歩くだけの日々。自己犠牲なんて長くは続かないのです。「一人も見捨てない」とは自己犠牲を強いることではありません。トップランナーが走ることを止めたら、『学び合い』なんて成り立たないのです。トップランナーには家庭教育力が高い家庭で育った優しく素直が子が多いでしょう。そういう子だからこそ、『学び合い』初期には我慢して自分を犠牲にしてくれます。でも、早く自己犠牲から教師が抜け出さないと、トップランナーが「こんな授業、もう嫌だ」となるでしょう。(『学び合い』以外の「普通の学級」で「普通の授業」が成り立たなくなるのも、トップランナーの子が「こんな授業、もう嫌だ」と感じた時なのです。)


トップランナーの子が自分も勉強しつつ、学習が苦手な子も確実に歩んでいくには何が必要か。
つまりは、自己犠牲=徳による助け合いではなく、共存共栄=得による学び合いを成り立たせるものは何か。


わたしが出した答えは、「時間」でした。
(つづく)