『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

長期的な授業モデル その4

その3 の続きです。>
トップランナーの子が自分も勉強しつつ、学習が苦手な子も確実に歩んでいくには何が必要か。
つまりは、自己犠牲=徳による助け合いではなく、共存共栄=得による学び合いを成り立たせるものは何か。
わたしが出した答えは、「時間」でした。


多分、「幸せじゃない子供が学級内・学校内に居ても平気」という教師はいないと思います。
でも「全ての子供を幸せにしたいけど、実現できていなくて、しかも、それを仕方ないと思っている」という教師は、度々見ます。
わたしだって、全ての子供を幸せにできているわけではありません。けれど、「全ての子供を幸せにしたいけど、実現できていなくて、でも、それをなんとかしたい」という志は持っています。『学び合い』じゃなくても、同じような志を持っている人はいるはずだし、ネット上で活動しているのはそういう方々と繋がれるのが嬉しいからです。
もしかしたら、「全ての子供を幸せにしている。しかも、死ぬまで幸せにしてあげられる」という教師が居るかもしれません。居ないとは言いません。っていうか居てくれ!俺もそうなりたーーーい!


話がずれました。


わたしにとっての「一人も見捨てない」というのは、「全ての子供を幸せにしたいけど、実現できていなくて、でも、それをなんとかしたい」ということです。
で、何とかしたいと思ったら、まず最初は「俺の頑張りでなんとかしよう!」と思うのが教師ってものだと思います。少なくとも、わたしはそうでした。で、一生懸命に頑張りました。『学び合い』的な文脈で言うと「一人ぼっちのあの子を何とかして一緒に学び合えるようにしよう」と頑張っちゃってるような。「全員、課題達成だ!」とこだわっちゃうような。そんな状態でしょうか。あとは、様々な指導方法をやたらと取り入れるのも典型的ですね。子供たちが幸せかは置いといて、色々な指導を取り入れている勉強熱心な先生を褒めてくれ!って感じ。なんて言ったら、言い過ぎでしょうか。でも、あったなあ、そんな時期(遠い目)。今思えば、必要な時期だったのだと言えなくもないかなあ。


ただ、何ともなりません。教師一人の力では、絶対に無理。頑張っていても、不幸な子は不幸です。『学び合い』をやってみても不幸な子は不幸。それに気付かないうちは「頑張っているんだから許してね」と言い続けられましたが、気付いちゃったんですよね。そうなると、悩みます。「どうすればあの子を幸せにできるんだろう」「そもそも幸せってなんだ」「どういう状態になったら実現したって言えるんだ」「もしかして、教師の考える幸せを押し付けているだけではないか」グルグル悩みました。
わたしが苦悩していたのは、「どうしても繋がりに濃淡が出てしまうこと」でした。「あの子ってあんまり繋がれていないよね」という苦悩。わたしが無言のオーラで「気の利く子」を無理やり動かして繋がらせているような状態。それで悩んでいた時期があります。
で、悩みの答えが出ないままだったら、「仕方ない」と思う教師に流れていったでしょう。ああ、サヨウナラ。


わたしは幸いにも、ちょっとずつ苦悩を脱することができました。ああ、良かった良かった。
苦悩を脱することができたのは、『学び合い』を始めたばかりのあるエピソードを思い出したからです。


わたしが『学び合い』をスタートさせたばかりの時のことです。体育の授業の冒頭、ある男の子が「ちょっと、全員集まろうよ。」と言いました。全員で相談したいことが出たのです。でも、二人の子がそこに混ざれませんでした。他の子がどんなに誘っても、二人は輪の中に入れません。少し離れた場所で輪を見つめたまま。他の子は色々と相談しつつ、でも、二人を誘いつつ。何となく重い雰囲気が流れていました。
わたしはずっと黙って見ていました。
約30分後、二人のうち一人がやっと立ち上がって輪の中に入りました。そして、それから2分後、もう一人もやっと輪の中に入りました。
輪の中に入るだけでも、30分かかるんですよ。そういう子って珍しくないはず。どんなクラスにも居るはず。



それから3年経って、再びその子たちを担任しました。6年生になったその二人は、クラスのために泣いたり、笑ったり、怒ったり。息を吸うように学び、息を吐くように成長するような子に変貌を遂げました。その二人だけではなく、クラス全体がそうだったんですけどね。
自信を持って「このクラスの学習は、全国トップレベルだ!」と言えました。だから、東書教育賞に出品したのです。東書教育賞を受賞しただけではなく、そのクラスは全員100点を達成したり、町の広報誌で2ページに渡る学級紹介をしてもらったりと、非常に思い出深いクラスとなりました。


みんなと同じ輪に入る。たったそれだけでも30分かかった。
そして、その集団が3年を経て、変貌を遂げた。
それはつまり、わたし程度のダメ教師だと、「一人も見捨てない集団を作ろう。」と、子供達に投げかけて、求め続けても、それが実現するためには年単位の時間が必要なのだ、ということです。


そう経験的に学んだからこそ、子供達に
「45分でなんとかしろ!」
なんて言わなくなりました。
かと言って、諦めているわけではありません。年単位で、同じテンションで子供達に求め続けることが大切なのです。
そんなにハイテンションで求め続けるのは無理です。ほどほどのテンションで、でも本気で子供達に求め続けるのです。(まあ、わたしは、平均値よりもちょっと高めのテンションなのは認めますが。変態ですから。)


「時間がかかる」
そういう前提で授業を考えると、色々と見えてくるものがあるのです。
(うーん、今回はあまり中身のある話にならなかった・・・。)