『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

これから『学び合い』に取り組む方に

わたしのクラスでは、インタラクティブ・カリキュラムの一環としてレポートを書きます。
今年はそれほど多くないのですけれど。でも、これくらいは書いています。


国語の時間だけではこんなに書けません。わたしのクラスでは、算数や社会、体育の時間にもレポートを書きます。自分で担当していないので、理科や図工では書けていませんが、もちろん書くことは可能ですし、以前は書かせたクラスもあります。
わたしのクラスの子供たちは、書くことを嫌がりません。もりもり書きます。もりもり書けます。


もちろん、わたしのクラスにだって書くことが苦手な子はいます。
苦手を通りこして、嫌いだった子もいました。いや、嫌いどころか作文を憎んでいるような子もいました。どこのクラスにだっていますよね、作文が大大大嫌いな子。
わたしのクラスにだって居たんですよ。
けれど、今は全員が書けます。みんなが書けます。一人残らず書けます。


さて、それはなぜでしょう。
それは、『学び合い』のクラスだからです。
これだけでは説明不足ですよね。別に、『学び合い』は作文とは無関係ですから。『学び合い』をやっていてもレポートを書かないクラスの方が普通ですから、誤解しないでくさい。
もう少し詳しくお話しします。


『学び合い』とは、教師の教授、つまり説明や指示を極限まで減らし、学習活動はほぼ全時間、子供達に任せるという学習です。わたしの場合は、45分中、わたしが話すのは3分程度。全く話さないことも珍しくありません。
教師の発言がゼロに近づくのですから、その分、子供の発言や関わり合いが増えることになります。
子供は教師の説明よりも、友達の説明の方がよく分かる。また、教師にはできないような発想や説明を、子供たちがすることがある。こういった現象は、多くの教師は知っていることでしょうし、賛同してくれる方も多いでしょう。
わたしのクラスでも、子供たちは実によく話し合います。活発な話し合いです。けれど、大声でどなるようなことはしません。実に自然に語り合います。わたしは、その様子を「遊ぶように学ぶ」とか「息を吸うように学び、息を吐くように成長する」と表現しています。それくらいよく学ぶのです。だから、たくさんの知識を得て、思考をめぐらし、その結果、書く材料がたくさん集まって、もりもり書けるのです。
『学び合い』は、子供同士の関わりによって、今まで授業についてこられなかった子も授業に参加できる。また、その学習が得意な子は、友達に説明することで、自分の理解をさらに深める。そういった利点があります。そうやって一斉授業と比較し、インプットが飛躍的に増えますから、こういった爆発的なアウトプットが可能なのです。
こういった考え方は、『学び合い』に限ったものではありません。特に目新しいものでもありません。多くの、そして古くからの「協働的な学習」「学び合い学習」に共通した考え方だと思います。



では、『学び合い』と他の「学び合い学習」ではどこが違うのでしょうか。



最初に述べておきますが、これは高橋の私見です。他の『学び合い』実践者の方とは多少、考えに違いがあるかもしれません。
それは、「それでも分からない子をどうするか」という点で、大きな違いがあるのです。
『学び合い』でたびたび使われる言葉に「一人も見捨てない」という言葉があります。『学び合い』理論の提唱者である西川純氏は、「一人も見捨てない、という教師の思いが、『学び合い』の根幹である」とまで言っています。じゃあ、この「一人も見捨てない」とは具体的にどういうことなのでしょう。


例えば、わたしのクラスでは、レポートを書くために「文章の型」というものを学習します。国語科で学習した型を使って、他教科で分かったことを文章にまとめるのです。同じ型で年に何十回も何百回も書きますから、書けるようになります。
その上、友達と活発な話し合いを行うのですから、書けるようになるに決まっています。事実、ほとんどの子がある程度スムーズに書けるようになりました。
ですが、それでも書けない子がいるんです。
友達が一生懸命に説明してくれている。分からないところを必死に教えてくれている。一人の子が駄目だとなると、すぐに他の子も助けにきてくれる。それでも分からない。書けない。鉛筆が動かない。そういう子がいるのです。


そういう時、普通の教師なら、普通の授業ならどうするでしょう。
たいていは、教師が教えるでしょう。
「こう書いたら?」「こんな書き方はどう?」
といった感じで。授業中で無理なら、休み時間や放課後に個別指導をする場合のあるでしょう。そして、それでも駄目なら、
「よく頑張ったね。こんなに頑張ったのだから、書けなくてもいいよ。」
となると思います。いや、個別指導までせずに、未提出だけどまあいいか、となることだって少なくないはずです。わたしだって、昔はそうでした。


けれど、『学び合い』は違うのです。
一生懸命教える。それでもできない。それでも、けっして「まあ、いいか」とは言わないのです。
もちろん、「何が何でも書かせろ!」というのも違います。
本物の『学び合い』クラスの子供たちは、そこで考えるのです。
「一生懸命に教えた。それでも分からなかった、できなかった子でも、少しでも伸びるのはどうすれば良いのか」
というように。
世の中には、素晴らしい指導法がたくさんあります。多くの先生が開発し、実践した方法があります。わたしとわたしの仲間が行っているインタラクティブ・カリキュラムの実践もそうです。また、協働的な学習として、ジグソー法や学びの共同体といったすぐれた方法・実践もあります


けれど、そういった素晴らしい指導法でも分からない子、ついてこれない子、教師やクラスの子供たちが手を尽くしても理解できない子。そういう子をどうするのか。そういう子も幸せにするにはどうすればよいのか。それを本気で考えて、本気で試行錯誤する。それを教師ではなく、学級の子供たちが取り組む。
それが『学び合い』のクラスなんです。


わたしのクラスも、1学期には書けない子もいました。泣きながら
「なんでこんなの書かなきゃいけないんだよ。」
と叫ぶ子だっていました。そりゃそうです。こんなに書かせるんですから、この教師は。
でも、自分が書けるだけではなく、クラス全員が書けるようになるにはどうすればよいかを真剣に考えるクラスだから、今では全員が書けるようになったのです。
そういうクラスを作るための理論が、『学び合い』には詰まっているのです。


もちろん、前半部分=「関わり合い」の面だけでも、『学び合い』には十分な魅力・効力があります。でも、この後半部分=友達のために本気で考えるクラスを作る、という部分が、『学び合い』の真骨頂だと思っています。他にない教育だと思います。


では、どうすればそんな夢のようなクラスができるのか。
まずは、簡単なことからお話していきたいと思います。



<以下略>





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