『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

知恵と勇気

http://manabitudukeru.g.hatena.ne.jp/furu-t/20150418
わたしも、教育は「洗脳」だと思っています。わたしは「染める」と表現します。が、古田さんとわたしが考えている中身は基本的に一緒でしょう。


学級は、恐ろしいくらいに教師の色に染まります。
それは、「教師が明るくて元気なら、クラスも明るくて元気になる」なんて単純なものではありません。
教師の明るさを受けて元気になる子もいれば、その明るさから逃げるように、日陰を作る子もいます。
また、担任が若くて意欲的で闊達だったのに、周囲からあれこれと干渉され過ぎて萎縮した結果、学級の子供たちもシンクロするように縮こまっていった、なんていう事例も見たことがあります。


教師は、自分が学級を染めているのだという自覚が無いと危険です。
「このクラスは、落ち着きがない。」
「このクラスは、自主性がない。」
そんな言葉は、天に唾するようなものです。「自分がそうしているのかもしれない」「自分が助長させている面もあるのかもしれない」と気づかないと、こういった問題は解決しません。


>自分という存在が目の前から消えても子どもたちの心を支えていく価値を刻みたい。


という古田さんの言葉。わたしは、そのために「法」と「理論」を学んでいます。
わたしという「個」を子供達に刻むのは危険です。合わない子も絶対にいます。
そういう子に、無理やりわたしの価値観を刻もうとしたら、「合わなかった」ではなく「一生恨んでやる」と言われそうで怖く感じます。


ですから、すべての人間が守るべき「法」を意識すべきです。
わたしはブレます。でも、法はブレません。(憲法をめぐる解釈があれこれ言われていますが、それは憲法がブレているわけではないと思っています。ま、政治の話はここではやめておきます。)
憲法教育基本法、学習指導要領。そして、各種答申。採用試験でこういったものが出題されるのは、そのためなんだということが、この年齢になってやっと分かってきました。
また、わたしが『学び合い』に魅力を感じるのは「理論」があるからです。
人は感情だけでは動かせません。わたしを「好き」な人は動くでしょうけれど「嫌い」な人は絶対に動きません。わたしを嫌いな人にも動いてもらうには、理が必要です。『学び合い』は一人も見捨てないための理論です。『学び合い』には、全ての人に利をもたらす理があるのです。利があれば、人は動きます。


法と理論を意識することで、わたしは、子供達を染めることに対する恐れを最小限にすることができています。
子供達を染めることに対して恐れのない人を見ると、羨ましく感じることもあります。小心者でビクビクと教師をしているわたしには絶対にできないことですから。
けれど、小心者ゆえに見えるのです。自分だけを軸にして染めていくことがいかに恐ろしいのかが。
そして、同時に、法や理論を学んでも、最終的には教師が肝を据えて染めていくのだ、ということもよく分かります。


>子どもたちを洗脳するという宿命から抜け出すことができない職業が教師


古田さんの言うとおりだと思います。
恐ろしさを理解しつつ、でも、逃げ出さずに立ち向かう。
それを勇気と呼ぶのでしょう。
玉砕しないために必要なのが「法」や「理論」といった知恵なのでしょう。


教師には、知恵と勇気が必要なのだと思います。