『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

神は細部に宿る

ある方と「対話」をしている中で、大切なことに気づくことができました。

私は『学び合い』の理論は正しいと確信しています。
けれど、『学び合い』だけが正しいとは思っていません。
また、『学び合い』は正しいけれど、完璧だとは思いません。
ですから、『学び合い』以外のものが存在しなければ困ります。『学び合い』以外のものが存在するから、補完してもらえるのです。

私が感じる『学び合い』の弱点の一つは、集団が集団として機能するまでに時間がかかることです。『学び合い』は子供達を信じて任せることで、集団を育てていきます。
本当は、集団が機能するまでじっと待って任せ続けられれば、最短で集団が機能するのかもしれません。けれど、残念ながら私には待てません。「保護者が~」とか「周囲の目が~」とか「子供達の安心のために~」とか、言い訳はいくらでもできますが、とどのつまりは私の弱さです。
弱い私は、様々な技術や方法の力を借ります。時には『学び合い』と矛盾するようなことをする場合もあります。そうやって、『学び合い』以外のものの力を借りて、まだ機能しない集団を助けるのです。



そういった技術や方法が悪い、という話ではありません。私だって使っているんですから。「悪い」どころか、感謝感謝。ただ、そういった技術や方法に頼っていると、いつまで経っても集団が自立しないことを私は経験的に知っています。
だから、私は学級から『学び合い』ではないものをできるだけ早く引き上げていきたいのです。
逆に言えば、『学び合い』を方法として取り入れている方は「そろそろ、学び合いはいいかな」と思うことがあることでしょう。それも当然だと思います。私は『学び合い』を広めたいけれど、でも、世の中が『学び合い』だけになることはあり得ないことを知っています。そんなの目指していません。


『学び合い』ではないものを引き上げていくには、何が『学び合い』で、何が『学び合い』ではないのかを見分けられることが必要です。そうじゃないと、何を残せばいいのかも分かりません。
ということで、私は「これは『学び合い』じゃないよね」という言動を取ることがあります。例えば、「話合いの方法を限定していたら、『学び合い』じゃないよね」「それを児童にやらせなくちゃ、『学び合い』じゃないよね」という風に。
だって、その区別に敏感でありたいんですよ。しかも、前述のとおり、私は「『学び合い』以外のものがあった方が良い」派ですから、悪気はありません。

でも、一方で、「違う」という意識が「駄目だ」と結びつく危険性には無頓着だったなあと反省しています。この点の至らなさに、最初に書いたように、ある方と対話していて気付いたのです。
「これは『学び合い』じゃないよね。だから、駄目だよ」
いやいやいや、私はそんな風には考えていません。ただ、考えていないということは、こう捉えられかねないってことなんだなあ。こういうところが、私の足りないところ。

と分かったけれど、そして、分かったからこそ、私は慎重に慎重に考えていきたいのです。「これは『学び合い』じゃないよね」と。そして、それを言葉にしていきます。一つは、「いや、私の考えはね……。」と言ってくれる人と対話するため。もう一つは、私の感覚を共有してくれる人を見つけるため。
ちょっとの違いにこだわっていたいのです。「大体同じだからいいじゃん」じゃなくて。

だって、神は細部に宿るのですから。ちょっとの違いが大違い。何でもアリは何にもナシ。
ただ、危険性はちゃんと分かっていなくちゃね。Iさん、度々ありがとうございます。