『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

摘まむ指導を避ける

「一斉指導」をしていた時には、授業中に「摘まむ」という行為を頻繁に行っていました。例えば、指名。挙手した児童の中から、ある種の意図を持って選んで、取り上げて発言させる、というような行為です。

他にも、多くの発言の中からどれを取り上げて板書するのかとか、机間指導をしながら誰かを褒めるとか、そういう「摘まむ」行為は意識的にも無意識的にも、たくさんやってきたことでしょう。
私がこういう行為を「摘まむ」と表現するのは、ハンカチの一部分を摘まみ上げると「ピラミッド型」になるように、教室でも摘まむ行為によってある種のピラミッドのような「階層」ができると感じているからです。
子供達は、あまり口にはしませんが、本当は気づいています。誰がよく指名されるのか、誰の意見は板書されないのか、机間指導で間違いを指摘されるのは誰か、教員が張り付いて個別指導をされるのは誰か。そういうのを何となく感じ、教員が無意識に作った階層の中で過ごしていくのです。

と、私は子供達から教えてもらいました。また、私の子供時代を思い出してもそうでした。何より、以前の私の学級はそうでした。

 

『学び合い』でも、こういった「摘まむ指導」が起き得ないわけではありません。例えば
「○○君は、友達に教えていて偉いね。」
「□□さんは、勉強がよく分かるのだから、△△さんに教えてあげてね。」
なんて言葉かけをしてしまったら、
「○○君は偉い。」
「□□さんは、△△さんより上だ。」

という階層を生み出すことになってしまいます。こうなると、『学び合い』が停滞します。教え役の子が固定化してしまったり、「教えて」と言えなくなったり。そうやって集団から流動生が失われていくのだと、経験的に感じます。
私はそれを避けるために、個人ではなく集団に語りかけるようにしています。
「今日は教える姿が増えたね。教える人は得するんだよ。どんどん得してね。」
「自分が分かるだけじゃなくて、みんなが分かるようになろうね。」
というように。

また、『学び合い』の初期のテクニックとして、「大きな声でつぶやく」というものがあります。
「あれ?この答えはおかしいなあ。」
「まだ、出来ていない人がいるなあ。」
というように。これも、個人に注目せず=摘ままず、全体を動かすためだと、私は理解しています。

と分かっていても、どうしても個人に注目してしまいます。
「摘まむ指導は、『学び合い』の邪魔」
私が心がけていることの一つです。

 

※このエントリーは一度消してしまったものを書き直しました。最初にあげた記事と内容がちょっと変わっているかと思います。