『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

諦めかけ

私が『学び合い』について考える時、最も大切にしているのが「学校観」だ。『学び合い』の「学校観」とは何か、『学び合い』wikiさんからコピペ。

「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」である

トップページ - 『学び合い』 wiki | @wikiより

これが『学び合い』の学校観である。教員の役割を考える時には、この学校観に照らして判断するようにしている。

例えば「俺は算数なんて勉強したくない。テストが0点だって全く構わない」と、強がりではなく本気で考えている子がいたとする。仮にA君としておこう。一斉授業でも算数の時間はいつも寝ていたA君は、『学び合い』で勉強するだろうか。まあ、多分やらないだろう。だって、0点でいいと本気で思っているんだから。『学び合い』で友達に誘われたらそれなりに勉強する子は多いが、そうじゃない子もいるものだ。

そういう時、多くの先生はどうにかしてA君に勉強させようとするだろう。話し掛けたり、面白い課題や教材を用意したり。一斉指導の教員だけではなく、『学び合い』の教員でもアレコレ策を講じる。みんな熱心。みんな良い先生だ。

だが、実は大して熱血ではない私は、A君を勉強させようとは思わない。私にはそんな力がないと分かっているからだ。

 

じゃあ、どうするか。

パッと浮かぶだけで、集団の状態によって異なる3つくらいのアプローチがある。ここで大切なのは、A君ではなく、集団の状態を見て、やることを変えるのだ。A君に働きかけて何とかできる人もいるのかもしれない。できる人はそうすればいい。が、私にはできない。だから、集団を動かす。私にはA君を変えられないが、いつの間にかA君も勉強していればいい。

この時にポイントになるのが学校観。

『学び合い』の学校観からすれば、「算数なんて勉強しなくていいよ」と本気で思っている子と折り合いをつけることは、他の子にとって得なのだ。だから、そう心から信じて語れる教員なら、A君も巻き込める集団を作れるだろう。また、A君にとっても、自分は算数なんてどうでも良くても、それでも算数の時間に他の子と少しでも多く関わり、集団の役に立つことは得なのだ。これも『学び合い』の学校観から見れば自明の理である。

が、これが難しい。偉そうにこんなことを書いている私も、時々見失う。それは多分、世の中の「良い先生像」とあまりに異なるからではないか。私だって良い先生と思われたい。A君が勉強をしないでいたら、他の子と関われるようにするより、まずは自分が関わる方が「良い先生」と見られそうである。だから、自分が関わってしまう…。

でも、私が積極的にA君と関われば、A君は私と折り合いをつけて「あー、先生がしつこいからやるか…。」となるかもしれないが、他の仲間と折り合いをつける経験ができなくなってしまう。だから、私は踏ん張って、良い先生になりたい願望に打ち勝つ。

まあ、こんな「戦い」は全ての人がやるべきだとは思わない。骨の髄まで『学び合い』でやりたい人だけやればいい。でも、その数はもっと増えて欲しいというのが本音だ。

 

また、「3つのアプローチ」と書いたが、「少なっ!!」と感じた方もいるだろう。策は多い方がいい、そう考える方が一般的だ。確かに、A君個人に働きかけるなら、やれることは無限にあるし、無限の努力が必要になるかもしれない。しかし、集団相手となるとそうでもない。集団は、ある程度理論に則って動く。だから、3つくらいで十分なのだ。

じゃあ、その3つとは何か。こういうことを分かりやすく言語化する努力を、継続中だ。

 

これまた、なかなか難しい。学校観に則った教員の行為について具体化するのって、本当に難しいのだ。

 

実はちょっと諦めかけている。