『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

同じ言葉でも

今日、私以外の先生が私の学級で授業している時に、用事があって教室に居たのですが、その時に、一部の子供達にこんな言葉をかけました。
「ちょっとおしゃべりが多いんじゃない?『学び合い』とただのおしゃべりは別だよね。」
(ちなみに、私以外の先生も部分的にですが『学び合い』で授業してくださっています。)

『学び合い』で授業をやっている中で、子供達のおしゃべりが多い時、声をかけるかどうか迷う方も多いらしいです。度々そんな悩みを耳にします。私は、声をかけるべきだと思っています。『学び合い』は放任とは異なります。教員がやるべき仕事は少なくないのです。
ただし、『学び合い』の3つの観に基づいて声をかけるべきでしょう。

私が「ちょっとおしゃべりが多いんじゃない?」と声をかけたのは、子供観と授業観に則って、次のように考えたからです。
一つ目は、「あなた達なら、もっとできるでしょう」と考えているからです。子供集団は有能であるという『学び合い』の子供観から見た時、私の判断として「物足りないな」と感じたのです。

二つ目は、「学習の成果が低すぎる」と評価したからです。『学び合い』の授業観において、「課題の設定」と「評価」は教員の役割の基本です。「俺は、あなた達ならもっとできると思うよ」と伝えるのは、教員の大切な役割だ考えています。

三つ目は、ちょっと「観」からは外れますが、自分の気持ちに嘘をついても良いことがないと思っているからです。その学びに不満なのに黙っていると、それが態度に出ます。子供達を「なんでか分からないけれど、先生が怒ってるなー」とモヤモヤさせてしまいそうです。

ということを瞬間的に考えて、声をかけました。
もちろん、こういう声かけは、少なくしていきたいと考えています。多すぎれば子供達の学びを邪魔します。時には、必要なおしゃべりをしていたのに、それを止めてしまう場合もあるでしょう。声をかけるかどうかの判断は、もしかしたら「センス」が物を言うのかもしれませんが、そういうセンスのない私は、「子供観」「授業観」に基づいて振り返ると共に、子供達の反応を見て、間違えたと思ったら謝りながら、その回数を減らしてきました。
また、「学校観」に基づき、時々、こんな話をします。

「あなたにとっては必要だったり、楽しかったりするおしゃべりかもしれない。でも、近くの人や一緒にやっている人にとっては、そうじゃないかもしれないよ。もっと静かな中で学びたいと思っている人もいそうじゃない?目の前の友達は、どう感じているか想像しなさいよ。
逆にさ、おしゃべりしている人も、本当におしゃべりがしたいのだろうかね。本当はもっと友達と学びたい、分かるようになりたい、でも分からなくてあきらめてしまっていたり、悲しかったりする人もいそうじゃない?目の前の友達が、どう感じているか考えてみようよ。
俺は分からないよ。おっさんだから、君たちの気持ちは分からない。でも、友達の気持ちが分からない、友達に自分の気持ちを分かってもらえないって悲しいし、これからの人生を考えたら、損じゃない?」
これは、私が考える「人との折り合い」の一部分です。

 

「おしゃべりが多いんじゃない?」という言葉を「だから、お前達に任せておけないんだよ」という思いで口にするのか、「でも、お前達ならもっとできるじゃん」という思いで口にするのかで、教員のその後の言動に大きな違いが生まれるでしょう。子供集団はその違いを感じ取ります。全員ではなくても、そして、一人では無理でも、集団として察知するのです。

 

この「集団として察知する」というのをイメージできるかどうかも大切だと考えているのですが、これはまたそのうち。

あー、それに、『学び合い』の3つの観についても、ちゃんと書いておかなくちゃいけませんね。