『学び合い』 流動型『学び合い』 学びのカリキュラム・マネジメント アクティブ・ラーニング

nao_takaの『縦横無尽』

小学校教員なおたかのブログです。『学び合い』(二重かっこ学び合い)を実践しています。単著「流動型『学び合い』の授業作り」を上梓しました。お手に取っていただければ幸いです。

主体的に判断するために

国語の課題に「言葉の意味調べ」というものがありますよね。これって全国共通でしょうか。
小学校教員以外の方や知らない方のために書いておくと、「教科書の中から分からない言葉を選んで、国語辞典で意味を調べる」や「教員が選んでおいた言葉について、国語辞典で意味を調べる」などやり方は色々あるのですが、基本は「国語辞典で言葉の意味を調べる」学習です。

私自身は「知りたい時に調べる方が良いと考える派」なので、「意味調べ」の時間は取らず、文章を読んだり、調べ学習をしたりしている中で辞書をひくことを奨励していますが、まあ、やり方の話はおいてといて。

 

もし、「意味調べ」の学習で、子供達がこんなことをしたら、教員はどんな指導をするのでしょうか。

 

Aさん、Bさん、Cさんの3人が一緒に「意味調べ」を行った。45分のうち30分を使って意味を調べた。先生が指定した50個の言葉のうち、1番から20番をAさんが調べた。21番から35番をBさん、36番から50番をCさんが調べた。そして、残りの15分で3人はそれぞれが調べた言葉の意味をノートに写した。

 

もしかしたら、ある教員はこう言うかもしれません。

「この学習は、素早く辞書をひけるようになることが大切なんだよ。だから、友達が調べた言葉の意味を写してはいけないんだよ。」
別の教員は、こう言うかもしれません。

「3人で力を合わせたことは素晴らしいね。でも、50個だけじゃなくて、もっとたくさんできたら、もっとよかったね。」

 

どちらの言葉も分かると言えば、分かります。というか、過去には私も言ったことがある種類の言葉ですね。

 

でも、子供達からすれば、「写してはいけない」にしても「もっとたくさん」にしても、どちらも

「だったら、最初から言ってよ。」
という話でしょう。

中には、

「言われなくてもできるようにならなくてはいけない。」

という教員もいます。それはそうなのですが、けれど、「主体的」という言葉が、「言われなくても教員の意を汲んでできるようにならなくてはいけない」という意味で使われるのは危険だなあと感じます。「主体的」の真逆ですよね。

 

子供達が主体的に判断するには、「その先」が必要でしょう。それはつまり、意味調べであれば「何のための意味調べなのか」です。その意味調べが、「辞書を早くひけるようになるための練習で、今度、そのテストがある」と分かっていれば(そして、そのテストに意義を感じているのならば)、子供達は「友達が調べた意味を写しても、辞書を早くひけるようにはなれないね。自分で調べなくちゃ!」と主体的に判断できます。その後の文章の読み取りをスムーズに行うための意味調べだと分かっていれば、「この言葉の意味も調べておこう。」と主体的に判断できます。

 

ただ、子供達が主体的になればなるほど難しいのは「俺はテストの自信がある。だったら、友達に教えつつ、自分は苦手な漢字の練習がしたい!」「私は計算問題をやりたい!」というように、バラバラになっていく可能性が高いのです。だって、子供達は十人十色だもの。


となった時、学習をどうデザインすればいいのでしょう。

もう一度、一つに収束させようとするのか。どんどん発散させていくのか。

収束させることは可能なのか。発散させ続けたらどうなるのか。

 

小難しいことを色々と考えていました。が、私の答えは決まってシンプル。

「何が問題なのかを子供達に伝えて、その解決は任せる」

実は、単元『学び合い』も、教科バラバラ『学び合い』も、そうやって進めてきたのでした。なんか最近、難しく考えすぎて、この原則を忘れていたのですけれど、ふとそんなことを考えていたのでした。